テキスタイルデザイナーの梶原加奈子さんがカジハラデザインスタジオ(KDS)を立ち上げてから、今年で15年。創業当時は日本であまり認知されていなかったテキスタイルデザイナーの仕事を単身スタートし、今では10人以上のスタッフを抱えるまでに広がった。現在、その仕事はテキスタイルデザインにとどまらず、国内産地企業のブランド立ち上げ支援、ディレクション、コンサルティング業務など多岐にわたり、日本のテキスタイルの魅力を世界に発信することにも力を注ぐ。
経験の場を提供し未来創造に貢献
――KDSを立ち上げた経緯は。
英国に留学していた04年、日本のテキスタイルメーカーがプルミエール・ヴィジョン(PV)パリに出展し始めた時期でした。英国でも日本メーカーはユニークと評価された一方、「色が黒や白ばかり。もっとマーケットが望むデザインを取り入れるべき」といった指摘や、「中国やインドの発展で、日本の立ち位置は今後、難しくなる」という意見を聞きました。
同じ時期、私はイタリアの織物工場と組んで素材開発する機会があったのですが、彼らは技術を磨くことに後ろ向きでとても仕事がやりにくかった。対して日本のメーカーは高い技術力があり、難しいことにもチャレンジする姿勢に尊敬を覚えました。これからは日本の繊維産業の発展に貢献したい、特に産地の工場から発信する仕事を頑張りたいと、卒業後は帰国することを決めました。
――帰国後は順風満帆?。
いえいえ。帰国して、さまざまな人と話しましたが、「日本でテキスタイルデザイナーの仕事をするのは難しい」と助言されました。当時、デザインはアパレルメーカーや問屋が指示するもので、産地の工場が発信することはなかったですから。それでも10年先を考えると、欧州のように産地自らデザインを生み出し、自販や海外販売していくことが必要だと確信し、産地の工場と直接仕事がしたいと伝え続けました。
考えに賛同してくれた元旭化成のMDだった方が西脇、尾州の2社を紹介してくれ、企画開発や販売戦略に携わることになりました。けれど当時はあまりにテキスタイルデザイナーの仕事が少なく、この仕事を知ってほしいと名刺に大きく「テキスタイルデザイナー」と書いてアピールしました。
フリーランスで仕事を始めて3年後、ソトーの自社素材販売の立ち上げにディレクターとして関わりました。大きな仕事に携わる機会が増え、インテリア素材の工場との取り組みなど仕事の幅も広がり、1人で仕事をするのは限界になっていました。日ごろからテキスタイルデザイナーの雇用の受け皿が少ないことに問題を感じていましたし、人材育成も兼ねて東京で事務所を立ち上げることを決心しました。1人を雇用するところからスタートし、今では社員8人、アルバイト3人、インターン1人の所帯になりました。
初めのころ、テキスタイルが好きだけれど仕事をする場がないと悩みながらKDSにたどりついた人が多かったですが、彼女らも今は自分の夢に向かって次のステージにはばたき、さまざまな企業で活躍。関わった人や企業の成長が、業界を活性化することにつながると思いますし、これからも成長の場を提供し続けたいと考えています。
――KDSの仕事や人材育成の考え方は。
リサーチからブランディング、テキスタイルデザイン、製品デザイン、販売サポートまで発想をつなげ、ビジネスをサポートしています。スタッフ2、3人のチームでプロジェクトを進めますが、それぞれの得意を生かしつつ、一方で幅広い知見も求められます。ファッション以外にも、インテリア、車などさまざまな分野からの依頼がありますから、得意分野だけでなく、異分野と両立させてデザインを生み出すスタッフの育成を心掛けています。
「デザイナーに経験の場を提供し、育てる」思いで経営してきましたが、自分もデザイナーを兼務しながらチームを育て、社員の夢を形にし、雇用体制を整えるといった、もともと得意ではないことに苦悩を重ねてきました。今でも毎晩反省して、朝から挑戦の繰り返し。でも30代のころから人と向き合い、考えてきたことが、40代の自分の支えになっていると思います。
――今後のKDSの役割は。
変化を受け入れる姿勢を持ちつつ、KDSのオリジナリティーとして三つの軸を常に心掛けています。一つは「テキスタイル産業の未来創造に貢献する」。最近はサステイナブル(持続可能な)の切り口も含めリブランディングに関わる仕事が増えていますが、21年は「出口作り」が最も重要だと思っています。社会がリスタートしていく中、産地の伝統や進化を伝え、新しい発信方法や顧客との出合い作りに挑戦していきたい。
もう一つは「グローバル化を促進し、日本とつなげる」こと。これまで欧米販売を強化してきましたが、一昨年から中国などアジアとのつながり作りを進めています。ポストコロナ社会では二極化がますます顕著になる可能性があり、日本の文化に関心を持つ世界の人に上質な物作りを紹介していけるチャンスと捉えています。三つ目は「北海道からクリエイションを発信していくこと」です。
グアテマラで実感、デザインの可能性
――改めて、テキスタイルデザイナーを目指したきっかけは。
子供のころは小説家になりたかったのですが、グラフィックデザイナーだった七つ上の兄の影響で14歳の時にデザインに興味を持ちました。色づかいをほめてくれた高校時代の美術の先生にテキスタイルデザインという分野を紹介してもらい、私自身も生活に根差した服やインテリアをデザインしたいと思うようになりました。
けれど両親に「デザイナーの仕事は過酷だから」と反対されて地元の短大に進んだのですが、あきらめきれずに1年で退学し、東京の美大を目指しました。予備校や受験費用を稼ぐため、フェリー船に住み込みで働いてお金を貯め、2年越しで念願の美大へ進みました。
卒業後はテキスタイル企画としてイッセイミヤケに入社しました。当時、店頭で見たイッセイミヤケの服の色やテキスタイルの生き生きした表現にひかれたのを覚えています。会社ではたくさんの経験を積んで刺激を受けましたが、一方で自分の視野の狭さにも気づかされました。ここで働き続けるには自分は力不足、もっとグローバルな環境で鍛えたいと思うようになり、デザイン教育の最高峰と言われる英ロイヤルカレッジ・オブ・アート(RCA)への留学を決めました。
――留学時はどのような経験をした。
合格通知をもらってロンドンに引越しし、入学手続きのために学校を訪れると「あなたは不合格。間違って通知を送った」というのです。留学をあきらめようか葛藤しましたが、家族や恩師、もとの上司らに励まされ、現地で生活費を稼ぎながら足りていなかった英語を勉強し、翌年、無事に合格できました。
RCAの大学院では、リバティやBMWといった世界の企業から課題が与えられ、コンペを勝ち抜くとギャラがもらえたり、商品化のチャンスが手にできます。5人のクラスメイトはイタリア、フランスなどみんな欧州出身で、アジア人は私だけ。クラスメイトともコンペを競うのですが、個性がなければ採用されません。自分自身のバックグラウンドがとても大事だと知り、日本の文化や歴史、思想、美意識などについて深く考えるようになり、日本を愛する気持ちも強まりました。
RCAでの体験で印象深いのは、英国のインテリア企業からの依頼で、中米・グアテマラの織物工場に2カ月滞在したことです。その工場の機械や人材、残糸を使い、英国で流通する生地を提案する仕事でした。スペイン語しか通じない工場で四苦八苦し、限られた環境を生かしながら技術者たちと企画した経験によって、現場からの提案の重要さ、デザインによって町や暮らしが活性化する可能性があることを実感しました。それまでの私は、感性や才能を磨いてデザインを競うというスタンスでいましたが、そうではなく、デザインには社会の架け橋になる役目があると気づかされました。
――北海道を拠点に活動を続けている。
帰国する際、世界からみた日本という視点でどこに住むか考え、生まれ育った北海道で暮らすことを選びました。美大のときに「昆虫の表皮」をテキスタイルやデザインのテーマにしましたが、これも幼少時から親しんだ自然に影響されたものでした。
私自身のクリエイションの源になっている北海道の自然を追求し、これを発信していくため、17年にホテルやショップ、レストランを併設した複合施設「COQ」(コキュウ)を札幌郊外に作りました。木々や川に囲まれ、野鳥や小動物も集まってきます。自然の恵みの中で深呼吸したくなるような空間を目指し、客室は開放的で大きな窓ガラスで囲いました。ショップでは、さまざまな産地工場の製品ブランドを紹介しています。昨年からは間仕切り、椅子張りなどテキスタイルでライフスタイル全体をコーディネートすることに重点を置いています。一つの空間から始まる思想を育て、訪れる人と安らぎを語る、またECで遠くの人にもCOQの明るい光を届けていきたいです。
■カジハラデザインスタジオ
本社札幌、メインオフィスは東京・中央区。06年創業、15年に法人化。テキスタイルや雑貨などの企画販売、ブランドディレクション、マーケティング分析、コンサルティングなど幅広い業務を手掛ける。これまでに契約した企業は、丸萬、小松マテーレ、川田ニット、ヒロタ、近藤紡績所、木曽川整絨など産地を問わず多数。また、ワールド、ダイドーリミテッド、ジュン、アトレ、豊島といったSPA(製造小売業)や商社からも依頼を受ける。最近ではIT企業、異業種などとのプロジェクトも進行中。17年に札幌にショップ・レストラン・ホテルからなる複合施設、COQを開設。
《記者メモ》
昨年11月のテキスタイル見本市のJFWジャパン・クリエーション、プレミアム・テキスタイル・ジャパンに多くの産地企業が出展したが、その中にカジハラデザインスタジオが関わったテキスタイルがたくさん並んだ。優れた技術を有しながらも、それを発信するノウハウに乏しい産地企業にとって、梶原さんはなくてはならない存在。
繊維産地の自立化が意識されるずっと以前からテキスタイルデザイナーの重要性を認識し、産地との仕事に取り組んできた。クライアントの気持ちや置かれた環境に寄り添ったサポートを心掛け、語り口も柔らか。しかし今回のインタビューで、両親に反対されながらも夢を追いかけた学生時代のこと、会社を辞めて英国に渡ったエピソードを聞き、とても芯の強い人だと感じた。
コロナ禍は日本のテキスタイル産業にとって試練のとき。けれど、「時代の変わり目には新しいクリエイションが生まれる」。梶原さんの仕事からますます目が離せない。
(中村恵生)
(繊研新聞本紙21年1月15日付)