業界を引退する小松マテーレ・中山賢一さん「日本の繊維はまだまだやれる」

2023/12/15 07:59 更新


中山賢一さん

 小松マテーレの中山賢一名誉相談役が12月23日付で退き、繊維業界から離れる。87年に社長に就任し、22年の会長退任まで35年間代表権のある最高経営責任者を担った。東レ合繊クラスターの会長をはじめ、業界団体の重責も果たした。22年から名誉相談役として経営の一線からは退いていたが、80年の社史の約半分をリーダーとして率い、北陸の一染工場を世界に名だたるテキスタイルメーカーに育てた。

(藤浦修一)

眼前のプラザ合意

 ――長年業界へ貢献されました。

 ここまでこられたのは得意先、業界関係者、社員とOB、OGなどたくさんの方々のお力添えのおかげ。お世話になった方々に心からお礼を申し上げる。

 ――最も印象的なのは。

 85年のプラザ合意だ。私の入社した63年は1ドル=360円の時代。71年の切り下げで308円、その後変動相場制になり78年には240円へと円高が進んでいた。繊維産業への影響調査でニューヨークを訪れた。プラザ合意のまさにその日、85年9月22日(現地時間)にプラザホテルに宿泊していた。この日を境に、各国が一斉に円高誘導に動き、為替は1ドル=100円台に突入した。営業の責任者で、これからは海外売上高の拡大だと活動を始めた時の大幅な円高。初めてグローバルに動く経済を実感した。これが私自身の大きな転機になった。プラザ合意は日本経済全体にとっても進むべき指針を与えてくれたと思う。

技術開発型で自販へ

 ――方針にも影響した。

 その直後に社長になったが、無借金経営で内部留保を厚くし、いざという時に備えること、それには利益を上げないといけないと肝に銘じた。技術を磨き、商品開発するしかない。日本国内で勝った負けたでは意味がない。欧州のラグジュアリーブランドが買ってくれるものでないと生き残れないと技術開発型企業へ、そして自ら販売する自販へと進んだ。

 ――心掛けたのは。

 論理的であること。経営は論理の積み重ねであって、論理的でないと部下はついてこない。

 ――今、繊維業界は。

 糸、織り、編み、染色、縫製と今一度、一丸となることが大事だと思う。それぞれの技術開発力を集約し、連携することで合理化、生産性向上を図れば日本の繊維産業はまだまだ世界で戦える。サプライチェーンとデマンドチェーンを融合する。その真ん中にある染色業はもうひと踏ん張り、ふた踏ん張りしないといけない。

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