痩せた土地にファッションビジネスは育たない――あらゆる商品と情報があふれ、先が見通しにくい今、どんな発想や行動が必要なのだろう。第一線で活躍する人々に、肥沃(ひよく)な土壌として知られるレディス専門店の人作りについて聞いた。
夢しか実現しない
カルチュア・コンビニエンス・クラブ社長兼CEO 増田宗昭さん
僕が初めてお金を稼ぐことを学んだのが鈴屋。ものすごく多感な頃で吸収力があったと思う。社長の鈴木義雄さんの良いところを自分のものにしていった。
まず、「お客様の喜びが我々の天職であり、全てが売り場に集約されねばならぬ」。こんな風に、鈴木さんが掲げていたフレーズが、CCCの基本になっている。どんな仕事も、お客さんのためになっていなければ意味がない。全部、そこからだ。
入社2年目に軽井沢ベルコモンズの開発を任された。建築基準法も知らない大阪弁の若造で、毎日怒られてばかり。ひどい自己嫌悪が続いたが、完成すると、大家さんもテナントさんも、お客さんも皆が喜んでくれた。夢しか実現しないと実感し、今も企業の規模は夢の総和と考えている。
鈴木さんが全社員に語る会が毎月あり、いたく心に刺さった。仕事の素晴らしさや人を信じること、経営のビジョン、真実、美…とロマンがあった。これが、つらい日々に心が折れなかった理由と思う。仕事と遊びの境界線のない、先進的な会社だった。
心の広さが原点に
ファッションビジネスコンサルタント 小島健輔さん
鈴屋にいたのは2年半だが、パンツ売り場での6カ月でVMDとは何かを学んだ。立ち上がりとピーク時、シーズン末期で、デザインや色、サイズ別に売り上げがどう変わるか。どんな一言が、「いただくわ」とさせるのか。今、店に立つことになっても、売る自信はある。
当時の社長の鈴木義雄さんには、今でも足を向けて眠れない。ただの若造にチャンスをくれて、パリやミラノにも行かせてくれた。申し訳ないから自前で海外視察に行こうとしたら、お小遣いをくれるような人だった。
この心の広さが原点と思う。情が深くて皆に愛され、狡猾(こうかつ)さにほど遠い。AからZまで専門店のオヤジだった。商品や店舗、人作りはしたが、それ以上には進まなかった。あれだけ売れていたのだから、投資ファンドを作るとか金融関連の事業まで広げられていれば、その後も違っていたかもしれない。そういう提案を、外に出た僕らができていれば…。でも、僕も60歳を過ぎてようやくわかったこと。今だから言えるのだろうと思っている。
料理は温かいうちに出せ
ユナイテッドアローズ上級顧問クリエイティブディレクション担当 栗野宏文さん
僕が入った1975年、当時の鈴屋はたしか年商が500億円くらいあって、日本で一番大きい小売りチェーンだった。MDに優れた会社で、僕の前にいた、後にいろんな会社に行かれた先輩も、鈴屋で培ったMDの力で転職した方が多かった。ただ、僕は鈴屋を1年半で辞めちゃった。
だから何を学んだかっていうと、現場で良くも悪くも小売業の一番泥臭い部分を勉強したのだと思う。店の掃除から始めて、靴下の啖呵売(たんかうり)をやって、雑貨の売り場を担当した。その後、入社3カ月目くらいから先輩がじゃんじゃん仕入れに連れていってくれて、いろんな人に紹介してくれて。
当時の鈴屋は成長のピークは過ぎていたが、まだよく売れる店だったので、売れたらすぐ補充。横山町や馬喰町の問屋で手に持てるだけ商品を仕入れて、上野の店に戻って店に並べる。その繰り返し。おいしい料理は温かいうちに出せ、みたいな、そういう小売りの基本をあの時身を持って学んだと思う。
期待以上の仕事で返す
ファッションジャーナリスト 藤岡篤子さん
「秘書は希望していません」。配属されてすぐ、上司にこう言った。美大を卒業して鈴屋に入社し、広告宣伝部で働けると思っていたからだ。しかし、「まぁ、やってみてから考えませんか?」と促された。
上司は営業責任者。秘書の仕事には、まず文書類の清書があった。それを、もっと見やすく、伝わりやすくしたいと考えた。ここから、マーケティングの仕事に入っていった。店頭の売れ筋と気候の関係から、時代の気分、世界の経済情勢など「これが必要だろうな」と予測しながら情報を集めた。全社の年間計画の基になる資料作りだが、やりたいと言って、止められたことがない。経済企画庁(現内閣府)や中小企業庁で話を聞く一方で、サブカルチャー界の面白い人たちを見つけて取材に行った。毎日が刺激的で楽しく、充実していた。
自由裁量である分、投げられた球は、それ以上に強く打ち返すつもりで仕事をした。怖いもの知らずの性格が生かされたと思う。社会人としての大事な基礎は、全てここで学んだ。
単品管理で意思ある店作り
AMS代表取締役会長 村井眞一さん
鈴屋で学んだのは「事業の創意と工夫」、そして「単品管理」。入社半年でいきなりバイヤーと言われて驚いたが、それ以上に商品発注書まで手渡され、仕入れ金額も任された。
役職の権限は守られ、本当に自由に裁量できたのも大きかった。上司はうるさ型が多かったので、細かな発注を自分で組み立てた。例えば、売るタイミングより早く入れると、売り場に商品が滞留してしまう。無茶な仕入れをすると移動や店作りで作業量が増え、店長から怒られる。細かな仕入れが、売れる店作りの基本として身に着いた。
単品管理はバイヤー時にたたき込まれた。仕入れ計画書を提出する上で、売れた商品分を補充する調達法やスピードをどうするかを学んだ。この経験が、蔦屋、AMSで生きている。
ただ、81年ぐらいに本部主導のMDが強化され、地区バイヤーの仕入れ枠が減り、SPA(製造小売り)型を目指したころから、自由の社風が急激になくなった。振り返ると「多様性の許容」が大事だったと思う。
現場主義と女性活用引き継ぐ
田中興産社長 田中敏男さん
鈴屋での体験は、強い思い出だ。わずかな期間だったが、所属意識は人一倍強い。社内に夢や希望が社内に渦巻いていて、その一員であったことは私の財産となっている。
強みは「人」。求心力のあった鈴木義雄社長のロマンを社員が共有し、「鈴屋人」としてプライドを持ち、200%の力を出していた。
私は特に「現場主義と女性活用」を学んだ。21~23歳の女性が店舗仕入れバイヤーとしてメーカーと商談し、発注まで一任され、現場を人の字のように女性陣が支えていた。女性の活用と戦略化は田中興産で引き継いでいる。
それほどの会社がなぜ衰退したかは、強かった営業力の低下と推測する。売り上げ至上主義になったことや、社員同士の夢やロマンの共有の薄まりもあったかもしれない。会社は永遠に伸びることはない。優秀な人材が頑張っても傾くことがある。穏やかにすべき時は動かず、経営者は財務をしっかりチェックをしていくことが大事と思う。
リスクよりもチャンスを選んだ
ワンスアラウンド社長 鈴木理善さん
鈴屋は今でいうベンチャー企業で、若い人に人気が高かった。入社動機は皆、違うが、「何かやりたいよね」と夢を持っている人を育て、環境を与えるところがあった。特にありがたかったのは、ビジネスの基本をしっかり教えてくれたこと。人とは何ぞや、仕事は何のためにするのか…と考えさせる一方で、仕事の段取りの大切さを含めた〝しつけ〟の部分は厳しい徒弟制度で教えてくれた。確かな土台が、ビジネスコミュニケーション能力を鍛えてくれたと思う。
人事部に入りたての24、25歳のころ、「日本列島〝寮〟改造論」を発案した。実際に具体化できたが、書き直した企画書は10回以上。何も知らない若者に、最終的には財政担当役員が付き添い、貸借対照表などの見方から全て指摘してくれた。
人の能力は短期間では分からない。鈴屋は仕事以外でも多くのヒーローを作り、褒める文化で伸びた。リスクよりもチャンスを選んだが、政策なき戦略に走ったころから、想像力とマネジメントのバランスが崩れた。
80年代のファッション市場をリード
日本のレディス専門店の先駆けは、1949年に東京・銀座に開店した三愛とされる。その後、“ファッションスペシャリティストア構想”を掲げてカジュアルファッション市場を広げた立役者が、「SUZUYA」の鈴屋だ。両社とともに御三家と称された新宿高野をはじめ、キャビン、名古屋から鈴丹、大阪から玉屋など大手チェーン店が誕生した。1980年代は年商「1000億円競争」を繰り広げるレディス専門店の黄金期だった。
繊維産業の歴史が長い日本で、女性たち一人ひとりにとって身近な“ファッション”の時代に転換したのが、大手小売業であるレディス専門店だった。その中で、鈴屋の鈴木義雄社長は先見の明と行動力で、多くの人々に影響を与えた。人材の宝庫で「鈴屋学校」とも呼ばれた。鈴屋を経た人々は、ファイブフォックスの上田稔夫社長、寺田倉庫の中野善壽社長、アズノゥアズの浅見英理社長、アッシュ・ペー・フランスの亀山功専務ほか多数。
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■鈴屋・年譜
1909年 創業(鈴木房吉が開業した「鈴木屋」)
54年 房吉の次男・義雄が専務に就任、婦人服専門店へ転換、「SUZUYA」スタート
62年 鈴木義雄が社長に就任、全国展開へ
72年 パリ・シャンゼリゼ店開店
73年 パリ・サンジェルマン店、香港店開店
75年 「軽井沢ベルコモンズ」開業
76年 東京・外苑前に「青山ベルコモンズ」開業
88年 国内に300店
97年 経営不振で和議申請
(繊研新聞本紙10月19日付)