「満足」や「fukuske」ブランドのレッグウェアやインナーで知られる福助は1882年(明治15年)、足袋装束商として創業した。足袋作りの歴史は139年を重ねる。当時、すべて手縫いで高価だった足袋の量産化に成功し、「福助足袋」は足袋市場における地位を築いた。1941年(昭和16年)に福助の四国工場として観音寺駅前に開設、1981年(昭和56年)に四国フクスケとして独立して現在の場所に移転し、いまも和装に欠かせない足袋作りの技術を継承している。
専用工場として技術磨く
足袋は、埼玉・行田、徳島・鳴門、岡山・倉敷と、四国フクスケのある香川の観音寺が主な産地とされる。四国フクスケは54人の従業員が働く、最大規模の足袋工場だ。日本人のほとんどが洋装に切り替わった今も、139年の歴史を受け継ぎ、専用工場としての技術を磨いている。「足袋の専用工場として139年にわたる歴史を持つのはこの工場の強み。真面目な職人が高い集中力で、黙々と、手早く作り上げるこの工場を視察に来た人が、その技術力に驚いて帰っていく」(北野正一社長)という。
生地の管理や検査、裁断、縫製、検査・出荷まで担う一環工場の中で、肝となるのが縫製の工程だ。アイテムとしては小さい足袋だが、足にぴったりと沿うよう立体的に作るため、「短距離で、曲線が多い」ことが難しく、人の手による微妙な作業の積み重ねだ。足袋作りに使われるミシンは同社で独自に改造する必要があり、ミシンの修理や保守点検も工場内で自前で行っている。
細かく分かれる縫製工程
足袋に使われる生地は、綿のキャラコとブロード、ナイロンのトリコットなどが主。底はボンディングしたオリジナルの生地が使われる。
検査を終えた生地はパーツごとにプレス機で裁断する。親指側の「内甲(うちこう)」、それ以外の四本の指(四ツ指)が入る部分の「外甲(そとこう)」のそれぞれ表裏と、底をセットし、縫製の工程に入る。
セットされた生地は、こはぜを掛ける糸を通し、縫い付けるところから始まる。こはぜは小さな穴に針を通しながら頑丈に縫い付ける。
表地と裏地を縫い合わせる「地縫(じぬい)」、甲部分親指側を表に返す「地返し」を経て、甲部分四ツ指側の中に甲部分親指側の生地を入れ、表裏4枚を重ねて数足分を一気に縫い合わせる。この縫い合わせる工程は立甲(たつこう)と呼ばれる。
立甲の後は表に返す「側返(がわがえ)し」、履いたときに力がかかる踵(かかと)が開かないように丸型のステッチで留める「丸止(まるどめ)」を経て、細かくギャザーで指先を立体的に作りながら底と縫い合わせる「先付(さきつけ)」へと移る。先付が最も難しい工程といわれ、スペシャリストを育成するのに3年以上かかるという。さらに、側生地と底生地を袋状に縫い合わせる「廻(まわ)り縫い」、底布裏の周りを千鳥でまつる「絡(まつ)い」までが縫製工程だ。
縫製された足袋は、表に返して突き棒で形を整え、木型に入れて整形する。検査、アイロンかけ、袋や箱入れの装飾、検針をして出荷に備える。
縫製の工程の名称は独特だが、足袋の産地や企業によって呼び名は異なるという。
技術者は縫製工程ごとに専門性が異なるため、一つの工程に長く就いて専門性を極めている。ただ、人数が減ってきた今は、多くの工程をこなせる多能工の育成の必要性も高まっている。現状でも多くの技術者が2~3工程をこなせるようになり、ベテラン技術者では6~7工程できる人もいる。
新規事業にも本腰
コロナ禍ではマスクの生産など、縫製の技術を生かして新しいことにもチャレンジした。足袋の需要が減る中で、トートバッグや巾着袋、エプロン、シューズのアッパーなど新しいジャンルの生産にも挑戦している。「コロナ以前から足袋の需要は減少していた。コロナが終息しても以前と同水準には戻らないだろう。足袋以外にも、技術力を生かす道を考えていかないと」(北野社長)と、親会社とも連携しながら、新規商品開発に挑んでいく。
〈チェックポイント〉手を鈍らせないよう稼働継続
80年時点に157あった足袋の製造業者は、21年には11にまで落ち込むと予測されるほど、足袋産業は急速に衰退している。日本足袋工業会がコロナ下で行った調査によると、20年度の生産予定数量は半数の5社が50%減と回答し、その他の企業も35~70%減という回答。需要の減少はコロナ禍以前からの傾向だが、昨年からの外出自粛やイベントの縮小、弓道や茶道の部活動の休止などで拍車がかかる。和装の衰退というときものや帯が話題になりがちだが、関連する産業すべてが影響を受けている。
四国フクスケでもコロナ禍の今の稼働は午前中のみだ。それでも休まずに稼働するのは、繊細な作業の感覚を失わないようにするため。日本の伝統文化を継承する場所としても、未来につなげる必要がある。そういう意味では、技術者の半数が平成生まれという若い技術者が大勢いることは大きな強みとなる。
〈記者メモ〉イノベーティブなDNA
香川県の西端に位置する観音寺市は、瀬戸内海に面する穏やかな気候の土地だ。日本の中でも貯蓄率が高い土地柄らしい。足袋作りの細かな作業と、真面目で堅実な土地柄がなじむのかもしれない。ミシンの音が鳴り響く工場内では、おしゃべりの声は一切聞こえず、すさまじい集中力がうかがえる。
福助足袋と聞くと、明治30年代後半に同社が行った、民家へ片足の足袋を投げ込み、もう片方を買いに来てもらうという奇抜な販促のエピソードを思い出す。
足袋をパッケージに入れて販売するというのも福助が生み出したという。斬新さや奇抜さで足袋の市場を切り開いてきたDNAが、いま苦境にある足袋の市場に新しい風を吹き込んでくれると期待したい。
(壁田知佳子)
(繊研新聞本紙21年5月19日付)