「どげん名前にしようかね」。福岡・今泉にダイスアンドダイスがオープンする1年ほど前の88年。地元の老舗百貨店、岩田屋本店の屋上では、オーナーの木下芳徳と後にデザイナーと花を咲かせる信國大志ら創業メンバーが集い、これからオープンするショップの名前を考えていた。
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半年ほどあーでもない、こーでもないと悩んだ末に、木下が口にしたワードは「ダイス」だった。英国のロックバンド、ザ・ローリングストーンズの「タンブリング・ダイス」(邦題「ダイスを転がせ」)という曲がその由来だ。
俺に賭けてくれよ/サイコロを振る時は、呼んでくれ/俺に賭けていいんだぜ/俺は転がるサイコロなのさ
ミドルテンポのスワンプロックは、70~80年代に一斉を風靡(ふうび)した「めんたいロック」が根付く福岡のこの地に合う。何の目が出るかわからない、いい意味でも悪い意味でも行き当たりばったりを表すこのワードは、創業メンバーの気分に合う気がした。実際、ダイスのその後の30年は、振るたびに出る目が異なる賽(さい)のように、その姿を変えていった。
国内仕入れ困難、海外へ
熊本出身のオーナーの木下芳徳は、セレクトショップの原形を作ったとも言われる熊本の専門店経営者、有田正博の一番弟子だった。有田に言わせると〝エリート販売員〟で、「九州の木下君」と言えば業界では全国区のトップ販売員だった。その後、ブレイズという店を最後に退社し、福岡の地に着いた。
福岡では、現在ギンガムが販売代行するビームス福岡の前身、鎌田和彦(ギンガム代表)が営む「Kショップ」で働いていた。福岡初のセレクトショップと言われている名店で店長を務めた。木下はその後、共同で別のショップを経営したが、考え方の違いもあって、そこを辞めた。
創業メンバーのひとりである信國は九州きっての進学校、孫正義や堀江貴文などを輩出した久留米大学付設高校を中退し、ダイス創業に合流するために福岡にいた。冒頭の岩田屋屋上での話はこの頃の話だ。
88年9月9日。現店舗よりもう少し渡辺通り寄りにダイスアンドダイスがオープンした。わずか7、8坪の小さな店だった。
もっとも、当時は弱小店舗だったゆえ、仕入れたいと思っていた、いわゆる「いい服」を国内の卸業者から買うことすらままならなかったと言う。
国内で仕入れられないならと、木下はできる限りの資金を当時17歳だった信國に託し、アメリカ・西海岸へバイイングに行かせた。
信國が見た光景は、日本で先輩などから聞いていた話と全く異なっていた。当時の日本の業界人の誰もが想像していた世界とは180度違っていたのだ。若者はスケートボードを片手に、「バンズ」や「ナイキ」「ギャップ」を身につけていた。彼らにとってのヒーローはスケーターやストリートアーティストだった。
今の本当のアメリカを体感した信國が買い付けてきたのは、プリントが載った大きなTシャツやスニーカーばかりだった。「どうしよう」。木下は自分の想像とのギャップに頭を抱えたが、信國が本気で語るカルチャーを信じ、当時仕入れていた「インバーアラン」や「トリッカーズ」などの伝統的な「いい服」と、今のアメリカンカルチャーを体現するストリートアイテムを同列に並べた。
結局、この品揃えが奏功し、それが評判を呼びダイスの名は業界で一躍知られることになった。その縁で、のちに「ステューシー」の九州代理店を任され、店も数店出すのだから世の中わからない。今でも信國は腰履きをした最初の日本人と言われている。
この最初の海外仕入れは別の意味も宿した。独特な品揃えの考え方だ。テーマやジャンルを設けず、「自分たちが面白いと思うものを仕入れて売ろう」というコンセプトだった。店を主語にして品揃えをするのではなく、人ありきの品揃えや店舗展開。だから、女性の仕入れ担当者が居なくなるとレディス業態をあっさりやめたりもする。
「世の中にはいい商品がそれこそたくさんある。でも、全部は扱えない。だから自分たちが面白いと思った人やブランドと仕事をしたい」。現在の番頭、吉田雄一はダイスの伝統に再解釈を加え、現在の姿につなげている。「自分たちはDJ。音楽そのものは作らないけど、つなげたりミックスしたり」。00年頃には展開店舗は6店ほどに増え、卸事業も手掛けていた。
福岡にこだわる
吉田がダイスに入社したのはオープンして10年ほどたった頃。もっとも、岡山から大学で福岡に来て、10代の頃からバイトをしていた。今ではダイスに関わって22年経つ最古参だ。それだけにアングローバルの一事業部になっても、ダイスの伝統を大事にしたいと思っている。アングローバルもその伝統をリスペクトして任せている。
ダイスの伝統を紡ぎ上げてきたのはもちろん木下だった。木下は、創業当時あった軟派なファッションのイメージを払拭したいと考え、「服ではなく文化を売ろう」とスタッフに繰り返し説いた。文化の伝え手として、あいさつなど従業員の振る舞いには特に厳しかった。ディレクターであっても前に出て目立つことは窘(いさ)めたという。
そんな昔ながらの専門店気質は今でも変わらない。今やセレクトショップもオリジナル比率が高く、その名も有名無実化しているが、同店は仕入れだけだ。30周年の記念商品や気心の知れたデザイナーが同店向けに作る商品は多少あるが、基本は変えない。「成り立たないと言われるけど、一店ぐらいそんな店があってもいいでしょ」と吉田は言う。
バイヤーが居ないというのもならでは。「売っている人間が一番尊い」と考えるから担当カテゴリーの販売員が仕入れに出向く。信國もそうだし、今は「ミノトール」のデザイナーである泉栄一もトップ販売員として仕入れをしていた。
採用もユニークだ。「ファッションが好き」「おしゃれな子」というより真面目で人とのコミュニケーションが好きな人間がいいという。「センスは努力で磨くことができる。3日で変わる」というのが先代の口癖で、吉田もそれを守っている。
「(働きだしてから)本当に色々あった。でも、今となってはそれら全てが糧(かて)」と吉田。創業時に決めた店名さながら、賽の目が指し示す方向に右に左に転がってきたような30年。東京に店を出したこともあるが、「これからは(自分の目がしっかり届く)福岡にこだわっていきたい。気持ちは今でもインディペンデント」。創業者の思いを大事にしながらも、嫁ぎ先であるアングローバルと二人三脚で歩を進める。
(敬称略:繊研新聞本紙20年3月2日)