【理想の店を目指して シンゾーン㊤】未経験だからこそ、こだわり追求

2021/05/01 06:28 更新


 「デニムに合う上品なカジュアル」をコンセプトに、オリジナルと仕入れの商品を販売するセレクトショップ「シンゾーン」。3月に20周年を迎える。副社長兼クリエイティブディレクターの染谷真太郎は「何の経験もない人間が始めた店。だけどやる気と自信だけはあった」と開店当時の思いを振り返る。

忘れられない留学体験

 真太郎は高校卒業後の99年の春、イギリスに留学した。イギリスの音楽が好きだったことと海外への憧れから留学を決めた。当初の計画では1年間語学を学び、その後2年間、資格を取るための勉強をする予定でいた。

 当時からファッションも好きで、「音楽を仕事にするのは才能からして無理でも、ファッションだったら自分でも何かできるかもしれない。本気で勉強するならファッションかなという気持ちだった」。

 だが、最初の語学学習でつまずいてしまった。学校に行かなくてはならないという気持ちはあったが、受けたコースが染谷にとっては難しいもので、学校から遠ざかっていってしまった。

 そこで、「勉強が無理なら1年間有意義に過ごそう、終わったら一生懸命働こう」と方針転換し、せっかくのイギリス生活で様々な経験をすることを目的にシフトしていった。このときにロンドンのセレクトショップ「ブラウンズ」や希少な「リーバイスレッド」を扱う店などあちこち回った。

 ショップ巡りをしている中で一番衝撃を受けたのが、ファッションコンサルタントのヤスミン・シーウェルが当時ロンドンに開いていた店「ヤスミンチョウ」だ。マンションの一室を使った店で、インターフォンを鳴らして入らなくてはならず、セレブも訪れる敷居の高い店だった。緊張しながら向かうとTシャツにフレアジーンズ、ビーチサンダルを履いたシーウェルさん本人が出迎えてくれた。

 アジア人留学生だった染谷に対しても偏見のない態度で接してくれ、学生生活について聞いてくれたり、紅茶とクッキーを出してもてなしてくれたりした。

 「とにかく感じが良くて、その経験が一番の宝になった」。感動するとともに、同じようなサービスを「日本でやったら良いだろうな」とも考えていた。

手探りでのスタート

 そうして1年が経とうとしていたころ、「学校に通わないなら帰国したら」と日本の両親から声がかかった。父親である染谷裕之は、インポートの商品を扱う会社数社で働いた後、独立して91年にシールズピュアフォルムを創業した。

 社名を冠したアパレルブランドを個店専門店に卸売りするほか、OEM(相手先ブランドによる生産)も請け負っていた。その会社の社長である裕之は、当時、新規事業として小売店を出すことを構想していた。

 裕之が設立した会社では、作る商品が女性用の通勤向けの服やボトムが中心だった。真太郎は「かっちりした通勤着の市場はいずれ日本でも縮小していく」と読んでいた。そこで、小売り店をやるなら「セレクトショップがいいんしゃないか」と持ちかけた。

 00年代に入ったころは、ビームスやシップスなど70年代にスタートしたセレクトショップが店舗を増やし、めきめきと成長していた。真太郎の話に裕之は賛同し、店の立ち上げは真太郎が全て任されることになった。

 当時を振り返り「10代後半だったから不動産物件を見に行っても相手にすらされなかったけど、とにかく、若い自分なりに一生懸命やろうとだけは思っていた」。ようやく、知り合いを通じて店を出す物件が決まり、売りたいブランドを探し、仕入れまでも自分でこなした。

「格好良さ伝えたい」

 中でもこだわったのがニコラ・ジェスキエールが当時クリエティブディレクターを務めていた「バレンシアガ」だ。80年代のファッションを再解釈しブラッシュアップして提案していることに「すごく格好良さを感じ、店を出すならニコラの服を扱いたい」と考えていた。

「日本で一番バレンシアガを売る店だった」と真太郎は話す

 バレンシアガのコレクションラインを扱っていた三喜商事の展示会の記事を見て、直接電話を掛けて交渉し担当者が話に乗ってくれた。買い付けの素人だったために、他のバイヤーに手取り足取り教わりながら、フランスのパリでインポート商品の買い付けもした。

 行きつけの喫茶店の内装に憧れて、その店を手掛けた同じ人に内装を頼み、予定の倍の金額がかかったが「自分としては最高の店を作ることができた」。まだ商売を始めてはいなかったが「苦労するイメージはなく、絶対売れるだろう、こういう風にやったらいい感じになるかな」と思っていた。(敬称略)

こだわりの買い付け商品が並ぶ、オープン当時のシンゾーン1号店の店内

(繊研新聞本紙21年2月22日付)



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