トーンを落とすことで探る関係
ラグジュアリー・ファッションのキーワードとしてdiscreet、とかsubtleといった、さりげなさ、控えめであることにスタイルを求める形容詞が気になります。1892年から2013年までのUS
VOGUEをdiscreet styleというキーワードで検索すると、関連する記事が333件ありました。1892年から1979年までは多い年でも1年で30件に満たないのですが、1980年代は急に年間で67件に増えます。
90年代も同じように67件の記事があり、2000年代も68件の関連記事がでてきました。2010年代の動向はまだ途中なのではっきり言えませんが、80年代以降に顕著に増加傾向が見られます。ピークは現段階では1991年ですが、ロゴを全面にださないブランドが注目されつづけていることや、つぎにご紹介するセルフリッジズの企画からも、discreetという態度がいまもなおトレンドであり続けていると考えて差し支えないでしょう。
今年1月から2月にかけてイギリスの百貨店、セルフリッジズが”No Noise”という企画を行いました。「サイエンス・ルーム」というメディテーションの場と、「クワイエット・ショップ」という、ハインツのケチャップからクレーム
ドゥ・ラ・メールまで、誰もが知っているようなブランドのアイコン的商品のラベルからブランドロゴを消し去ったものを並べた、二つのエリアで構成されています。
この企画はいろいろな解釈が可能です。ノイズをとりはらった静かな場で、こころを落ち着かせ、じっくり商品に向きあうという発想はデジタル時代へのバックラッシュともいえますが、この脱ブランド企画は、じつは一目でどこのブランドかわかる有名な定番商品だからできるのかもしれません。確立したものは静かにしていても、そうでなくても結局選ばれる、というブランド先行時代へのアイロニーも感じられます。
それでも、ロゴが「ノイズ」として認識され、コンスタントにブランドの名前を叫び続けるかに見える状況に異議を唱えていることは間違いありません。スタイルをとおしてメッセージを投げかける側が、それを受け取る側との距離感をはかるという、プロダクトとそれを手にするひととの関係性を再認識させようとする動きではないでしょうか。叫ぶことをちょっとやめる、あるいはトーンを落とすことで相手の声がはじめて聞こえてくるのかもしれません。皆さんはこの企画をどうお考えになりますか。
ことばと服の類似性
先月末、哲学者の長谷川宏さんにお会いする機会がありました。長谷川さんが38歳のときに上梓された『ことばへの道』についてうかがう、という会でした。長谷川さんは東大闘争の後、塾の教師をしながら在野の哲学者として執筆を続けてこられました。塾の子どもたちからは、「先生」ではなく、ずっと「おっちゃん」と呼ばれてきました。先日は、ちょうど子育ての日々を送られていた執筆当時の状況や、なにが長谷川さんを言語研究に向かわせたのかなど、執筆時につかわれていた自筆のメモなども見せていただきながらのお話でした。たいへん明晰な文章で、それを30代後半で書かれたことにはおどろきを感じずにはいられません。
長谷川さんの本はタイトルどおり「ことば」がテーマですが、これを読んで表現媒体としての服とことばの類似性にあらためて気づかされました。文中の「ことば」を「服」に置き換えてもまったくとどこおりなく読めてしまうことに興奮すらおぼえました。
とくに、「ことばを発することは、自分に面とむかいあう他者を定立することであり、同時に、自分を他者にむかって定立するものでもある」という、ことばの共同性をしめした箇所や、逆にそうした共同性をことばのもつ伝達機能の一部としてとらえてしまう傾向に注意をうながす、「ことばが伝達の手段として機能することと、ことばが人間と人間との共同の関係として存在することとは、次元のちがったふたつの事柄だ」といった箇所は、いずれも服の本質を理解する上でとてもだいじな指摘に思えました。
モノローグ化させられてきたファッション
ところが、この伝達機能と共同性の混同がまさにファッションにとっての深刻な問題なのです。ちょっとめんどうな話になってしまうのですが、でも、日本のファッションの発展性を考える上でだいじなことだと思うので、すこしご辛抱いただけるとありがたいです。
日本ではここ30年ほど、ファッションが自己表現であるという伝達機能にフォーカスしたある種の呪縛から逃れられない状況がうまれています。よそおいのモチベーションを、「マナー」という機能的な選択として考える場合も、マズローの欲求段階説の「自己実現」とする場合も、本来は関係性の中で検討すべきですが、いずれも伝達機能的な「自分らしさ」の表現として換言されてしまうのです。
さらには、伝達機能的な役割すら無視して、ファッションは「自分のため」、「誰かを意識しているわけじゃない」という言い方すらもよく耳にします。ファッションを語るとき、関係性を無視するほうがどうも収まりがいいのです。長谷川さんがことばの本質として示す、「人間と人間との共同の関係として存在する」という指摘が服にも当てはまるとすれば、服は自分と他者との共同の関係として存在しているといえます。
でもこの視点はファッションにとってなんだか居心地の悪いもののようです。私たちのファッション感覚の中心には、相手を意識せずに自己表現することが正しいことのような、ワタシ発ワタシ行きというワタシ中心主義のようなものがどっかりと腰をすえてしまっているからではないでしょうか。
すこし意外かもしれませんが、それには、30年ほど前の政策が関わっているように思います。以前、戦後の日本で、高度経済成長のいきおいが落ちてくる中、当時の政府がどのように成長戦略を練っていたのか調べたことがあります。その中で、1970年代後半から個人主義という考えをもちいて消費を盛り上げようとしていたことがわかりました。また、その際に個人主義に含まれる、共同性をもとめる側面をいったんはずし、ひたすら自分のありよう、身体など自己にフォーカスするような「アイデンティティ探し」と消費をうまく結びつけようとした経緯が徐々に見えてきました。
3.11以降に「きずな」や「つながり」、といったことばが注目されていますが、しかし、この自己表現のために消費するという思考習慣はいまなお根強いのです。とりわけ、ファッションについては、チームのユニフォームのような場合は別として、個別のよそおいに関しては、関係性をモチベーションにすることを「人の目を気にする」とか「周囲に流されて」といったことばでどこか罪悪視し、他者の存在を頭から追い払ってしまいます。私たちのよそおいが、モノローグ化すればするほど、それがなんだかかっこいいこととして評価されている現実を否定できません。
カワイイがもとめる関係性とは
ファッションはコミュニケーションツールというだけでなく、コミュニケーションそのものです。たがいにそれを受け取りあいながら、おたがいのありようを見つけようする、そんな不断のプロセスです。それは、誰もが意識せずに行っていることです。だから向き合う相手のコメントや反応が気になるのです。とくに女性の場合「カワイイ」という形容詞の威力は絶大です。
でも、カワイイというコメントが得られるとうれしいものの、それによって相手とどんな関係を築きたいと考えているのかは覆い隠されたままのように思えます。全体像が見えないまま、周囲は気にしちゃだめ、という意識と、カワイイという反応にどこか振り回される板ばさみ的な状況に私たちは戸惑わされています。他者抜きの「自分らしい」表現を求めているうちに最終的になにが買いたいのかわからなくなる、そんな袋小路に入ってしまう可能性もあるでしょう。
セルフリッジズの企画はいろんな矛盾をはらんでいます。でもdiscreetであることで、トーンを抑えたプロダクトとそれに向き合う消費者との関係性を見直し、なぜそれを必要とするのかあらためて検討してみるよう、うながしてくれます。一方、日本のファッションやプロダクトは多くの場合、カワイイ存在であることにその市場的価値を見いだそうとしています。カワイイ存在として認識してほしいというメッセージは、それを投げかける相手といったいどのような関係を築こうとしているのでしょうか。このことばが求める、相手や周囲との関係性について次回考えてみたいと思います。
参考文献:
VOGUE ARCHIVE ヴォーグ・アーカイブ http://www.vogue.com/archive
Selfridges & Co. http://style.selfridges.com/whats-on/no-noise-selfridges
『ことばへの道』 長谷川宏 講談社2012 (勁草書房1978)
短期的なトレンドにすこし距離をおきながら、社会の関心がどこに向かっているのか考えてみるブログです。 あさぬま・こゆう クリエイティブ業界のトレンド予測情報を提供するWGSN Limited (本社英国ロンドン) 日本支局に在籍し、日本国内の契約企業に消費者動向を発信。社会デザイン学会、モード?ファッション研究会所属。消費論、欲望論などを研究する。