人はなぜ、自分の誕生日だけは忘れないのか。それは今自分がここに在ることの、たった一つの記念日だからでしょう。年に一度のバースデーは、いくつになってもうれしい。最高の記念日であります。誕生日をはじめとして、「記念日」は誰にとっても永く記憶に残るものです。
もし、そうであるなら、毎日が「記念日」だとすれば、どんなに素晴らしいことでしょう。例えば「おしゃれ記念日」。例えば「ファッション記念日」。毎日が「おしゃれ記念日」なら、もっともっと人生は楽しくなります。そんな思いから、毎日の日付のなかから「おしゃれ記念日」を探してみました。いわば「日付のあるおしゃれ物語」。さて、今日はいったい何の「おしゃれ記念日」なのでしょうか。
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7月16日 ボタンダウンを書くにふさわしい作家は
1951年7月16日は、『ライ麦畑でつかまえて』が出版された日です。アメリカのリトル・ブラウン社から。作者はJ・D・サリンジャー。ジェローム・デイヴィッド・サリンジャー。原題は『ザ・キャッチャー・イン・ザ・ライ』。刊行以来、少なくとも6000万部は売れているとのことです。今なお人気を保っています。
1950年代の小説としては、徹底的に若者言葉、それもスラングや話し言葉を織り込んだ文体になっています。当時の良識派としては「不謹慎」とされて、扱いを禁止されたものです。にもかかわらずというべきか、だからこそというべきか、売れに売れたのでした。
サリンジャーの短篇に『フラニー』があります。この中に「小さなボタンダウンのシャツに縞のネクタイをして入ってきて…」これはあるエリート校の、若い代理教員の姿なのです。思えばサリンジャーほど「ボタンダウン・カラー」を書くのにふさわしい作家はいなかったのかもしれませんが。
7月17日 ギャングスターの愛したピンドカラー
1899年7月17日は、アメリカの俳優、ジェームズ・ギャグニーの生まれた日です。ニューヨークに生を受けています。ジェームズ・フランシス・ギャグニー・ジュニアとして。父はバーテンダーだったという。1989年に世を去っています。
1931年の映画「民衆の敵」でギャングの役を演じる。この役が注目されて、本物よりも本物らしい、ギャング俳優になるのです。1939年の映画「彼奴は顔役だ」では、ハンフリー・ボガートとも共演。1942年の「ヤンキー・ドゥ・ドゥル・ダンディー」では、アカデミー主演男優賞を得ています。
ギャングという役柄もあってか、よくホンブルグ・ハットをかぶっています。1930年代のハリウッド俳優としては、ホンブルグが似合ったひとりでしょう。1930年代のジェームズ・ギャグニーが愛用したもう一つのもの。それが「ピンドカラー」。シャツの襟元をピンで留めるスタイル。たぶん、リバイバルすることでしょう。
7月18日 ハンサムな俳人と夏の白靴
1901年7月18日は、俳人、日野草城の生まれた日です。日野草城はこの日、今の東京・上野に生を受けています。本名は克修(よしのぶ)。幼くして当時の朝鮮に渡っています。日野草城をはじめ俳人には美男子が多い。そのなかでもことにハンサムだったようです。
また、俳句をたしなんだ父の影響から、早くして才能を発揮。中学の頃から『ホトトギス』に投稿して、点を得たと伝えられています。
ある時、句作仲間の鈴鹿野風呂に招かれて、ところてんをごちそうに。日野草城はこの時がはじめてのところてん。で、たちまち、二十の句を詠んだと伝えられています。
その中の一つが「ところてん 煙の如く 沈み居り」日野草城の代表句の一つとされています。
日野草城の7月生まれとは関係ないのでしょうが。なぜか夏の句に目が向いてしまいます。「白服に 煤をおそれて 勤めけり」これは昭和7年の句集、『青芝』に収められた一句。
また、同じ句集に「白靴の よごれがちなり 夏深く」。戦前までの紳士は、白麻服に合わせて白靴を履いたものです。これは時代考証にもなる一句でしょう。
7月19日 小説家もまねたくなるアスコットタイ
1949年7月19日は、映画「青い山脈」が封切られた日です。原作は石坂洋次郎。監督は今井正。主演は、原節子と池部良。原節子はほぼ同年代の役でしたが、池部良は18歳の学生の役。当時、池部良の本当の年齢は33歳だったという。
池部良の父は、池部鈞(ひとし)。画家で藤田嗣治とも友人だったそうです。池部鈞の父は、神田の羅紗屋だったとも。池部良は初めから映画俳優を目指していたわけではなく、監督志望だったとか。なので1941年に東宝に入った時も、監督志望者として。
1941年の「闘魚」でデビューするも、第2次世界大戦中には兵隊に。その後、兵役を終えて、再び映画の世界に。
1948年には「破戒」にも出演。それからは危なげのない二枚目俳優として活躍。その一方で、随筆にもたけていて。『そよ風 ときには つむじ風』が好評で迎えられています。
『続 そよ風 ときには つむじ風』の解説を書いたのが北方謙三。この解説の中で、池部良の「アスコットタイ」姿があまりに格好いいのでまねした話が出てきます。格好いい姿は、まねしたくなるものですね。
7月20日 船上の発明家とキャプテンハット
1937年7月20日は、無線電信の開発で知られるイタリアの発明家、マルコーニが世を去った日です。グリエルモ・マルコーニは1874年4月25日に、イタリアのボローニャで生まれています。
父のジュゼッペは裕福な地主。母のアニーはアイルランド人でした。旧姓アニー・ジェイムソン。アイリッシュ・ウイスキーを代表するジェイムソン家の出身です。
グリエルモ・マルコーニは幼少期から科学好きで、趣味は実験でした。そのマルコーニが大きくなって成功したのが、無線電信だったのです。1909年には、ノーベル物理学賞を得ています。
晩年のマルコーニは船上生活を好んだものです。ヨットを購入して、「エレットラ号」と名づけました。全長72㍍、700㌧の豪華ヨットだったのです。1920年代以降、「エレットラ号」で、生活も実験も行ったのです。「エレットラ号」こそ、誰にも邪魔されずに実験に熱中することができたから。
グリエルモ・マルコーニは船上では当然のように、船長の服装だったのです。もちろん帽子は、キャプテンハットだったのです。
7月21日 釣り好きなヘミングウェイのエスパドリーユ
1899年7月21日は、ヘミングウェイの生まれた日です。
アーネスト・ミラー・ヘミングウェイは、今のシカゴに生を受けています。1961年7月2日に世を去っています。代表作は『誰がために鐘は鳴る』『武器よさらば』『老人と海』でしょうか。1954年にノーベル文学賞を受けています。また、いずれも映画化されて、話題作にもなっています。
ヘミングウェイは釣りだけでなく、ハンティングも好きで、サファリの経験もしています。また、サファリの経験からも、いくつかの短編を生んでいます。サファリの時の服装などの一式は「アバクロンビー&フィッチ」で整えたと、伝えられています。
没後に刊行されたのが『海流のなかの島々』です。ヘミングウェイの半自伝とも言える小説。この中に、「麻縄底の靴で桟橋から音もなくデッキに飛び降りたロジャーは…」という一節があります。「麻縄底の靴」。これはおそらく、エスパドリーユだったのでしょう。
7月22日 『宝島』船長の青い服はネイビーブルー
1818年7月22日は、トーマス・スティーヴンソンの生まれた日です。この日、スコットランドのエディンバラで生を受けています。親子二代にわたる灯台設計者で、今も、設計した灯台は多く残されています。
トーマスの息子が、『宝島』の作者ロバート・ルイス・スティーヴンソンです。1850年にやはりエディンバラに誕生しています。最初、父にならって土木建築を学ぼうとしたのですが、どうも向かなかったようです。
1878年にファニー・オズボーンと結婚。ファニーには、連れ子のロイド・オズボーンがいて、その子のために、即席に語り始めたのが、今に伝わる『宝島』の物語なのです。
『宝島』はこんな描写からはじまります。
「タールまみれの弁髪は、よごれた青い服の両肩に垂れさがり…」。これはジムの前にあらわれたビリー・ボーンズの様子。ビリー・ボーンズは船長という設定ですから、「青い服」はネイビーブルーだったと考えてよいでしょう。弁髪は、その時代の中国趣味の男の三つ編み。これが汚れるので「セーラーカラー」が生まれたわけです。
7月23日 『高い窓』に描かれたスペクテイターズシューズ
1888年7月23日は、小説家チャンドラーの生まれた日です。この日、シカゴに生を受けています。
レイモンド・ソーントン・チャンドラーとして。レイモンド・チャンドラーが1943年に発表したのが『高い窓』。原題も同じく『ザ・ハイ・ウィンドー』。この中に、「スレートブルーの涼しい夏物のウーステッドの背広を着て、白黒のコンビネーションの靴を履き…」。これは依頼人の富豪の息子、レスリー・マードックの着こなし。
「白黒コンビネーションの靴」とは、スペクテイターズシューズのことでしょう。時代は、第2次世界大戦中のことですから、際立った靴だったに違いありませんね。
7月24日 谷崎潤一郎と芥川とスタッドの逸話
1886年7月24日は、谷崎潤一郎の生まれた日です。今の日本橋人形町に誕生しています。潤一郎の弟が谷崎精二。この精二と区別するために、「大谷崎」と呼ばれることもあります。
代表作は数多くあります。が、日本語の美しさを極限まで追求した小説としては『細雪』を挙げるべきでしょう。谷崎はその小説ごとに文体実験を仕掛けた人物でもあります。
その谷崎潤一郎が肩の力を抜いて、落語でも語るように書いたものに、『當世鹿もどき』があります。この中で芥川龍之介との交友について語っているのです。
『芥川さんは何と思ったか、「僕が嵌めて上げませう」と、手前の前に膝をついて手傳つて下さいました』。これは昭和元年ころの話。谷崎がタキシードを着ようとして、スタッドがなかなか留まらない。それを見た芥川が留めてくれたという話。芥川龍之介、最晩年のことです。
7月25日 マッキントッシュの誕生の秘密
1843年7月25日は、マッキントッシュが世を去った日です。チャールズ・マッキントッシュは1766年12月29日に、スコットランド・グラスゴーに生を受けています。科学者にして発明家。独学で化学を学んだ人物でもあります。
マッキントッシュは今、「防水布」「防水コート」として有名です。が、最初から防水布を発明しようと思ったわけではありません。弾力性に富む、新しい物質を考えようとしたのです。
その結果として、硫化ゴムが生まれることに。この硫化ゴムを生地の間に挟むことで防水性が生まれることに気づいたのは、その後のこと。マッキントッシュが「防水布」で特許を得たのが1823年でした。
この「防水布」の発明に注目したのがトーマス・ハンコック。トーマス・ハンコックはマッキントッシュに投資して、「マッキントッシュ会社」を興しています。「マッキントッシュ」の防水性は完全でした。唯一の欠点が、雨に濡れると匂いのすることでした。この欠点が解消されたのが1951年。ジョセフ・マンドルバーグによって。
7月26日 バーナード・ショー愛用の「イエーガー」
1856年7月26日は、文学者、脚本家のバーナード・ショーの生まれた日です。ジョージ・バーナード・ショーはこの日、アイルランドのダブリンに生を受けています。1950年11月2日に世を去っています。
ショーは1925年にノーベル文学賞を受けています。が、一般に広く知られているのは、「マイ・フェア・レディ」の原作者としてでしょう。ショーの『ピグマリオン』が演劇となり、演劇がヒットしたので、後に映画化されてものです
このバーナード・ショーが愛用したのがウールの下着で「イエーガー」製だったのです。イエーガーは1884年に、ロンドンのムーアゲイトに開店しています。レヴィン・トマランによって。
レヴィン・トマランはイエーガーの博士の信奉者で、博士の教えを実践に移したもの。それは「動物性繊維を直接肌に着るのが良い」というものだったのです。このドクター・イエーガーの理論に賛同したひとりがジョージ・バーナード・ショーだったのです。
7月27日 『鷲は飛び立った』に登場するサビルロー」
1929年7月27日は、イギリスの作家、ジャック・ヒギンズの生まれた日です。本名はヘンリー・パタースン。英国のニューカッスル・アポン・タインに生を受けています。
しかし、後の説明では、「アイルランド生まれ」となったものがあります。アイルランド生まれなのか、イングランド生まれなのか。ちょっとしたミステリーともいえるでしょう。ジャック・ヒギンズはアイルランドびいきのところがあって、主人公は不撓(ふとう)不屈のアイリッシュ。そんなこともあって、自ら「アイリッシュ」を称したものと思われます。
ジャック・ヒギンズの代表作は『鷲は飛び立った』でしょう。ただし、数多くの英国製ハードボイルドを書いています。ことに第2次世界大戦中の、虚実をない交ぜにしたものには定評があります。
第2次世界中を描くからなのか、それとも本人の好みなのか、多くトレンチコートが出てきます。しかし、トレンチコート以外にも着こなしの描写が少なくありません。
『鷲は飛び立った』の中にも「サヴィル・ロゥ(サビルロー)で濃紺のウーステッドの素晴らしいスーツに…」そんな場面が出てきます。これはジャック・カーヴァーという男の着こなし。つまり、ジャック・ヒギンズはハードボイルドを読みながらおしゃれの勉強をするには、最適であるのかも知れません。
7月28日 ポーが描いた白カシミヤのモーニング
1965年7月28日は、平井太郎が世を去った日です。江戸川乱歩の本名です。1894年10月21日、三重県に生まれています。「江戸川乱歩」のペンネームがエドガー・アラン・ポーの名前から来ていることはいうまでもないでしょう。
江戸川乱歩は何度もエドガー・アラン・ポーを絶賛しています。事実、エドガー・アラン・ポーはいくら絶賛しても足りないくらいの、大作家でありました。
単に探偵小説の開祖というだけでなく、詩人としても天才のひらめきを発揮しています。平井太郎がエドガー・アラン・ポーにあやかろうとした思いはよく理解できます。
エドガー・アラン・ポーが1839年に発表した小説『ウィリアム・ウィルソン』。その中に「その時僕が着ていたのと同じ、当時流行型の白カシミヤのモーニングを着た青年の姿に気がついた」。「当時」というのは、1820年代のことでしょうか。白いカシミヤでモーニングコートを仕立てた時代があったようです。
7月29日 ダイアナ元王妃とスペンサーの由来
1981年7月29日は、英国のチャールズ皇太子とダイアナ・スペンサーが結婚した日です。ダイアナ・スペンサーは1961年7月1日、英国のサンドリンガムに生まれています。英国王室の別邸のあるところ。このことだけでも、ダイアナ・スペンサーの家柄の良さがしのばれるでしょう。
ダイアナの父はエドワードで、第8代スペンサー伯爵。順にさかのぼると、第7代アルバート、第6代チャールズ、第5代ジョン、第4代フレデリック、第3代ジョン、第2代ジョージ、初代がジョンです。
1780年代にちょっとした事故がありました。ジョン・スペンサーがフロックの裾を暖炉の火で焦がしたのです。でもそのフロックを捨てることがなかった。フロックの裾をすべて切り落として、ごく短い上着にして着た。それが当時の流行になって、「スペンサー」と呼ばれることになったのです。
7月30日 今日出海の『天皇の帽子』
1984年7月30日は、小説家、今日出海が世を去った日です。1903年11月6日の生まれですから、80年の人生だったことになります。
今日出海は今東光の実弟。1925年には、東京帝国大学仏文科に入学。同級生に小林秀雄、三好達治、中島健蔵などがいたという。1937年にはパリへ。1968年には、初代文化庁長官となっています。
今日出海が1953年に発表した短篇が『天皇の帽子』。その年の直木賞を受けています。
主人公はごく平凡な成田弥門。悩みはたった一つ。あまりに頭が大きくて、サイズの合う帽子が見当たらないこと。ある時、さる公爵の家に呼ばれる。そこで、蔵に眠っていた帽子を拝領する。その昔、大正天皇がおかぶりになっていたお帽子を。それを頭にいただいてみると、まるで注文したようにぴったり。
成田弥門は地道な、目立たない博物館勤め。ところがある日、「天皇の帽子」をかぶって出勤すると、まわりの者の態度が違う。帽子の由来について、ひと言ももらしていないのに、急に成田を敬いはじめる。ざっとそんな内容の小説なんですが。
7月31日 結婚式に平服で出席した小説家
2006年7月31日は、小説家、吉村昭が世を去った日です。1927年5月1日、今の東京・日暮里に生まれています。代表作は『戦艦武蔵』でしょうか。津村節子は夫人。父、隆策は綿紡績工場を経営していたという。
1952年、吉村昭は学習院大学在学中で、文芸部部長を務めています。文芸部の部費のために落語の寄席を考える。学習院大学での寄席の前例はない。学校の許可が下りない。困った吉村は、当時の院長、安倍能成の自宅を訪ねて、直談判。やっと特別の許可をもらって、呼んだのが古今亭志ん生。
1978年、吉村昭は結婚式に出席する予定が。その前日は沖縄での取材。そこで、モーニング一式を東京の結婚式場に直接、届けてもらうことに。吉村本人は飛行場から結婚式場へ。式場に着いてみると、確かにモーニング一式が。でも黒靴がない。仕方なく、平服で結婚式に出たそうです。