《寄稿》能登半島地震被災地から㊤ 高齢化の進む半島北部 復興までは長い年月

2024/01/18 15:00 更新


火災の発生した輪島朝市通り

 石川県能登地方を中心に甚大な被害を及ぼした能登半島地震から半月が経った。被災地に向かう多くの道路は寸断され、大雪にも閉ざされ、支援は届きにくい状況が続いている。2度にわたって被災地を取材した報道写真家の川柳まさ裕氏に現地の状況を寄稿してもらった。記者兼カメラマンとして中部地区のニュースを担当。岐阜県羽島市在住で羽島市議会議員でもある。

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各地で大渋滞発生

 1月4日の早朝、同級生の歯科医とともに輪島に向かう。災害時には被災者の歯科治療とともに口腔(こうくう)ケアをすることで肺炎予防など、災害関連死を防ぐ医療支援にあたるエキスパートだ。歯科医の車に寝袋や食料、ガソリンを積み込み岐阜を出た。

 岐阜から東海北陸自動車道を北上し、富山県高岡市から、能登半島の富山湾側の沿岸を走る。能登半島の付け根の富山県氷見市あたりから、瓦屋根が損傷した家屋が見え始める。さらに北上すると、断水、そして停電。信号は消え、アスファルトは橋などのたびに段差ができ、5センチほどの段差でもタイヤがバーストしないように速度を落とし慎重に乗り越える。

 がけ崩れや片側が崩壊した箇所も多く、対向車と譲り合いながらすれ違う。もちろん警察官や警備員による誘導はない。道路の損傷による超低速と対向車との譲り合いによる大渋滞、使いモノにならないカーナビの指示などで、輪島市に到着したのはその日の夜。

 車で一夜を明かす。余震が続く。停車した車にいても、突き上げるような揺れ。取材中の最大の余震は震度5強。凸凹の悪路を走っているようだった。

 翌5日。歯科医は輪島市の大規模避難所となった「健康ふれあい広場」に医療支援のために詰めていた。火災のあった「輪島の朝市」通りに徒歩で取材に向かう。

倒壊した建物の生存者を捜索

耐震補強も効果乏しく

 実は、輪島での震災取材はこれが初めてではない。今から15年前にも輪島は震度6強の「2007年能登半島地震」に襲われている。それから数年おきではあるが、輪島の復興を見つめ、自分では「復興の見本」「観光のお手本」と位置づけてきた。

 あの頃は、「新潟県中越地震」(04年M6.8)、「新潟県中越沖地震」(07年M6.8)など日本海側で地震がたてつづけに発生していた。隣県で相次ぐ地震の取材が、地震災害の報道を続けるきっかけとなった。「雪の多い地方の建物は、梁(はり)などの強度が高く、木造であっても地震に強い」という専門家の声を聞いた記憶がある。さらに、輪島市では、15年前から建て替えや耐震補強が施されてきたはずだ。しかし、今回の震災では「耐震補強」も効果が乏しく、先の学説も吹っ飛ぶ地震の破壊力によって家も街も港も破壊された。

輪島市ではビルも倒壊

 被災した朝市通りの住民に再建について聞いたが、「もう、何度も立ち直ろうとしてきた。やっとここまで来たのに。これ以上、何をすれば良いのか」など、返ってくるのは諦めに近い声ばかり。

 焼け野原となった住宅の跡地にいた女性も「ここで亡くなった方もいます。まさか、地震ではなく火災で亡くなられるとは。命が助かったことを喜んでいましたが、冷静になり現実を受け止めると、これからどうして暮らしていけば良いのか不安でなりません」。

 高齢化が進むのは輪島市だけでなく能登半島北部全域に及ぶ。この震災は復興まで長い年月が必要だ。だが、「朝市」にせよ、観光客の再誘致にせよ、元の通りに戻すエネルギーが残っているだろうか。

輪島朝市通り

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