足袋の産地として有名だった埼玉県行田市で創業70年の縫製業、角倉繊維(渡邉俊雄社長)は時代の変化に合わせて作る商品にシフトしながら事業を継続している。足袋に始まり、作業用や子供用のボトム、祭り用品と需要のあるアイテム作りをフレキシブルに対応してきた。これには産地特有の分業制による生産体制の名残から自宅で作業する職人が多かったことが背景にある。同社ではコロナ禍のマスク生産・販売を契機に、アップサイクル型の自社ブランドにも挑んでいる。
ボトムや祭り用品へ
行田市は江戸中期から足袋の生産が始まり、以来、約300年にわたり日本有数の産地として知られる。大正から昭和初期まで地場産業として全盛期だった。最大の消費地である東京から鉄道で約1時間という利便性の良さも強みだった。
生産体制が細分化しており、内職による下請けも多かったため、町中からミシンの音が聞こえたという。生産工程の中では足先部分を縫う「ツマ」(先付け)という重要な工程を手掛ける職人は技術力が高いと重宝された。
角倉繊維は現在、3代目修行中の清宮友里絵さんの祖父が足袋作りを開始。1950年代後半にナイロン製靴下が市場に出回るなどの影響で足袋が売れなくなり、徐々に作業服、子供服へとシフトしていった。2代目の渡邉俊雄社長は、子供用ボトムのチェックなどの柄合わせを正確にこなして差別化を図りながら、地道に国内生産を続けた。同時期の80年代後半に行田の産地企業は海外での大量生産にシフトしていった。
90年代から角倉繊維では祭り用品の生産を開始した。代表的なアイテムは、全国の神輿(みこし)の担ぎ手や浅草など観光地の人力車夫が着る鯉口シャツや腹掛け、ももひきなど。当時は縫えるところが少なかったため、同社でも祭り用品の生産を強化した。その後、海外生産の低価格品も市場には増え、競合も激化しているが、同社では子供服の柄合わせで培った技術を生かし、鯉口シャツの一点物の客注対応やカスタマイズ生産で強みを発揮した。
マスク作りが転機
3代目修行中の清宮さんが入社して3、4年でコロナ禍になってしまい、祭り用品の生産にも大きな影響が出た。当時、マスク不足が社会問題となっていたため、急いで問屋から抗菌抗ウイルス生地「クレンゼ」を仕入れ、布マスクを作った。ただ、「販売する仕組みを構築しないと求めている人に届けられない」と考え、20年2月末に「ストアーズ」で自社ECサイト「128コーナー」を開設した。
同業他社よりも早くマスクの生産・販売に着手したことで、需要は高く、最盛期には1カ月で2500枚を売り上げた。1カ月遅かったらクレンゼやガーゼが仕入れられず、商機を逃していたかもしれないという。マスクは現在も継続的に売れており、累計1万枚超を販売した。
ECサイトを立ち上げた当初から「マスク販売だけでは終わらせない」との思いが強く、次のステップとして新たな商品開発に挑んだ。鯉口シャツ作りの経験に加え、「いずれ祭り用のポシェットを作りたい」との考えから帯の生地を仕入れていたことがあり、1年前から自社ブランドで「きものシャツ」の生産に踏み切った。
問屋から仕入れるきもの生地は、製品に仕立てられた未使用のデッドストックのきものを解体することが多く、在庫の反物の場合もある。「小売価格に合わせる」という基準で仕入れているため、結果的に売れ筋に偏ることなくバリエーションは豊富になる。生地は解体と洗浄作業に耐えられる強度を備えた大島紬(手織り、機械織り)が中心だ。
清宮さんは生地の目利きを養うため、奄美大島まで勉強に訪れたという。きもの生地の仕入れから、裁断、ボタン付けや仕上げのプレス作業を自社工場で担い、地域で長年続く分業制を生かし、シャツの縫製は同社専用の自宅作業の職人に任せている。EC用の撮影まで自社で手掛けることで、スピーディーな生産・販売を実現する。
きもの1枚からシャツは1.5~2枚作れる。そのため、一点物に近く、売り切り御免で販売している。当初は男女双方とも作っていたが、予想以上にレディスが売れなかったので、早期にメンズに集中した。
売れ筋は、夏用の半袖開襟のきものシャツ。きものシリーズでシャツ(半袖・長袖)のほか、ブラウスやサコッシュなども揃う。シャツはきもの生地だけでなく、クレンゼなど高機能なタイプもある。きものシリーズは累計で300着を販売している。夏は全社売り上げの半分を占めることもあった。経営的には売り上げ以上に利益貢献度が高い。
《チェックポイント》足袋産地の分業体制が今に生きる
行田の足袋は第2次世界大戦中に軍需物資の製造も加わり、1938~39年に最盛期を迎え、年間8500万足を生産し、全国の約80%を占めた。コロナ禍前の17年時点でも生産量は最盛期の40分の1にまで減少したもののシェアは35%あり、日本一の足袋産地だという。足袋の生産体制は分業制の下で細分化(13工程)されており、大部分は複雑な手作業となる。昔は大型工場もあったが、在宅で作業する職人に支えられた。各工程で専用のミシンを使う。重要な工程の「ツマ」(先付け)ではドイツ製ミシンを改良して使ったという。
同社でも祭り用品はもちろん、自社ブランドのきものシャツを生産する際には行田地域で築き上げられてきた分業制を活用し、同社専任の在宅職人に縫製してもらうなど協力体制を維持している。
《記者メモ》独自の販路確立が重要
「工場にとって自社独自の販路があることは重要」と3代目修行中の清宮さん。コロナ禍の布マスクの販売でECサイトに付いた顧客が大きな財産となり、自社ブランドのきものシャツの開発にもつながった。メルマガ会員は約800人、インスタグラムのフォロワーは1000人超。中には工場まで訪ねてきて、きものシャツ十数枚をまとめ買いした熱心なファンもいるという。
アップサイクル型の一点物的な商品開発は、大量生産型の大規模な工場ではなく、地域に根差した小さな工場だからできるのだろう。国内工場ではファクトリーブランドの開発が相次いでいるが、角倉繊維のようにファンの声を聞きながら、自社の得意分野を見極めて新たな事業にトライできているところはまだまだ少ない。
(大竹清臣)
(繊研新聞本紙23年1月4日付)