【顧客第一主義を継ぐ150年 松屋㊥】やる気に火をつけた意識改革

2020/09/13 06:27 更新


1964(昭和39)年に大増築が完成した銀座店

 戦中の営業後退は全ての百貨店で共通だったが、戦後の店舗の接収はそれら全店で負わされたわけでない。戦後の復興を目指す松屋にとって7年にわたって主力店の全館が接収されたことは大きな痛手となった。3代徳兵衛は「百貨店は建物自体が生命だと言って良い。店舗の接収は廃業を意味するほど重大なことである」と当時を振り返っている。仮営業を続けながら、全社員の百貨店再興にかける決意と努力で耐え続けた。

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戦後まもなくPX(米軍内の売店)時代の売り場

どん底からの復活

 接収が解除され1953年に銀座店が新装開店した。55年に松屋の名物売り場となるデザインセクション(現デザインコレクション)を開設、翌年に空中エスカレーターが完成した。その後、景気の好不況の影響を受けながらも、再起を果たした。 高度経済成長の時代を迎え、百貨店の売り場拡張競争が始まった。都心部では62年に東武百貨店、小田急百貨店、64年に京王百貨店など新宿、池袋でターミナル百貨店が誕生した。松屋にとっては店舗の狭さが常に飛躍の壁となっていた。人員の確保、包装紙と店名書体の刷新など準備を進め、宿願だった銀座店の大増築は64年5月に完成した。銀座3丁目の1ブロックが店舗となり、銀座で最大の百貨店となった。

 関東大震災や戦後の店舗接収などの苦難を乗り越えてきた松屋だが、70年代半ばの経営危機はかつて経験したことのない深刻な事態になっていた。開店から4年で船橋店を閉店、銀座の本社事務館の売却、創業地の横浜の店舗を手放すなどリストラを断行するが、76年に無配に転落する。このどん底から抜け出すのは既存の再建策で追いつかないと判断し、外部から実力者を招聘(しょうへい)することに決めた。白羽の矢が立ったのは伊勢丹(現三越伊勢丹)専務の山中鏆だった。

 山中は伊勢丹でティーン・エージャー・ショップなど次々にヒットを飛ばし、経営能力の敏腕ぶりが評判となり「伊勢丹にこの人あり」と言われた人物だった。伊勢丹社長の3代小菅丹治は「人材を送って援助することはADO(全日本デパートメントストアーズ開発機構)体制の強化発展と松屋との友好関係維持促進となる」と再建援助の要請を承諾した。伊勢丹と松屋は71年に業務提携し、それぞれ主催していた十一店会、エコーグループを母体として百貨店の共同開発機構、ADOを73年に発足していた。

 松屋に移って3年後の79年、山中は社長に就任する。創業以来初の古屋一族以外の社長誕生となる。まず着手したのは意識改革だ。山中村塾(そんじゅく)と呼ばれる社員とのミーティングは、1年で2000人の社員全員と会い、本音を引き出した。社員一人ひとりが自ら売り場を良くしようと考え、改善していくボトムアップ方式による現場第一主義の山中流改革は社員のやる気に火をつけた。その後も自らが講師となり、商品知識や接客技術を体得するための社内勉強会を毎週開いて従業員との対話を繰り返した。

 社員の意識改革とともに、五つの経営方針をまとめた。

  • 顧客第一主義
  • 共存共栄
  • 人間尊重
  • 堅実経営
  • 創意工夫

 松屋の原点に立ち返って本来の独自性を発揮することで再建の道筋はできると考えた。そして山中は89年12月までの10年半を社長として尽力し、瀕死(ひんし)の松屋をよみがえらせた。

1987(昭和62)年の社内ポスターに登場した山中鏆社長

切り札はイメージ戦略

 銀座店リニューアルは再建に向けて避けられない大きな課題で、「新しい松屋」のあるべき姿の模索が始まる。経営コンサルタント、PAOSの協力の下、新たにCI(企業イメージの統一)を導入した。松屋再建の切り札はイメージ戦略であると考えたからだ。これまでの百貨店のように老若男女のあらゆる年代に客層を広げるのでなく、メインターゲットを30歳を少し超えた都市型生活者に設定。都心型の呉服系、電鉄系でもない第三の百貨店を目指し、伝統の松鶴マークに替えて「MATSUYA GINZA」の新しいマークを導入した。銀座店の全館リニューアルは78~80年の3期に分けて実施。商品が目に付きやすいように売り場通路を斜めに構成し、斬新で都会的なイメージが浸透した。併せて浅草店の全館改装に着手した。

 売り上げは79年度から2年連続の2ケタ増となり、81年2月期には復配(3円)した。

 復活した松屋だったが、84年には銀座にプランタン銀座、有楽町マリオンに西武百貨店と阪急百貨店が相次いで進出した。迎え撃つ形となった山中は「生活文化創造集団」として多角的複合経営を前進させる方針を表明。その原動力は従業員がやる気集団になることが欠かせないと呼びかけた。他店の進出が相次ぐ中で、松屋は客数、売り上げともに伸ばした。

 多角化経営を推進し、食品などの宅配サービス、家電専門店などを立ち上げ、13社、1学校法人からなる企業集団となった。グループの共有コンセプトは東京人たちの生活文化をハード、ソフトの両面からリードすること。新しいことに挑戦するクリエイティブな生活創造集団になることを目指した。

 すでに都市型百貨店を志向していたが、さらに明確に打ち出すには店舗の独自性、個性を創造することが欠かせない。東京だけに店舗を持つ百貨店だからできる商品、サービスを特化していくことになる。

(敬称略:繊研新聞本紙20年1月27日付)



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