【顧客第一主義を継ぐ150年 松屋㊤】実質本位、親切丁寧の創業精神

2020/09/12 06:30 更新


1907(明治40)年に開店した洋風3階建ての横浜・今川橋店

 松屋は1869(明治2)年に初代・古屋徳兵衛が創業した。徳兵衛は1849年に甲斐国巨摩郡(現在の山梨県北杜市)で生まれた。生家は甲州街道(国道20号)近くで、取締役専務執行役員の古屋毅彦は「甲府の取引先に案内してもらったことがあり、今は小さな祠(ほこら)が祭られている」という。

維新の激動期に創業

 初代・徳兵衛は父の影響もあり、12歳で江戸に出た後に横浜の呉服屋で奉公した。呉服の商いを学び、横浜と深く関わるきっかけとなった。その後、同郷の満壽(ます)と結婚し、呉服の仲継商として独立した。明治維新の激動期に、郷里の家財一切を売却し、その全財産を携えて横浜の地で創業した。

 夫妻は自宅前で反物の端切れを売り始めたところ、よく売れたため、小売りの商いに専念するようになった。店は横浜のはずれにあったが、通勤する女行員や漁師のおかみさんらの間で評判になった。これが松屋の前身、鶴屋の始まりとなる。

 当時の小売商は反物を切り売りしないのが常識で、客は必要がなくても一反を買わなけらばならなかった。反物の切り売りを始めたのは「実質本位」「親切丁寧」の顧客の実益を最優先する初代・徳兵衛の商いの精神、信条が表れている。さらに1873年頃から正札販売を実施した。古屋家には第一に質素なる生活を営むことをはじめ、子弟の教育、品行方正、投機的事業を慎むこと、飲酒を節することなど徳兵衛が記した7カ条の家訓が残されている。

 鶴屋は創業時、間口4.6メートル、奥行8.2メートルで住まいを兼ねた建物だったが、事業の拡大とともに店舗を拡張していった。1879年に2階建てに改築し、1903年に2階を総陳列形式に移行した。これまでの座売りを改めて、呉服、綿布、洋反物などを陳列し、客が自由に品物を手に取って選べる方式を採用した。さらに1910年に3階建て洋館を新築し、明治の終わりには横浜第一の呉服店としての地位を築くことになる。

 現在の社名、店名である松屋は1889年、東京・神田の今川橋松屋呉服店を買収したことによるもの。旧松屋の買収は東京進出への地盤を築いた点で大きな意味を持つことになる。今川橋店は1907年に洋館3階建ての店舗に新装開店し、いち早く百貨店への第一歩を踏み出した。これに合わせて松鶴マークが作られ、鶴屋・松屋共通のシンボルとなった。

松鶴マーク

転機となった銀座進出

 今川橋店が次第に手狭になり、地の利を失いつつある中で、2代徳兵衛は銀座への移転を決断する。銀座はすでに東京随一の繁華街として隆盛していたとはいえ、松屋にとってはその後の社運を決める転機となった。

1925(大正14)年の銀座店開店時の広告

 銀座進出で社内の機運が高まっていた時、1923年に関東大震災が発生した。銀座店は被災による2度の工事休止(計12カ月)を乗り越えて1925年、開店する。建物は円形天井のステンドグラス、大理石をふんだんに使った内装、1~6階へ通じる緩傾斜の大階段など東洋一の設備と評された。開店当日は入場制限を実施するほど客が詰めかけたため、下足預かりを廃止した。当時は店内が土足禁止だったことから、日本百貨店史上の画期となった。開店後は1日の平均入店客が20万人に達する盛況ぶりだった。1926年には本店登記が銀座に移され、松屋の拠点は名実ともに今川橋から銀座へ移行した。横浜は関東大震災後に伊勢佐木町入り口の吉田橋に移転し、仮設営業を続けていたが、1930年に新築開店した。

 昭和初期は深刻な不況に直面したが、1931年に浅草店が開店する。東武線浅草駅に新築した駅ビルに東京初のターミナルデパートで、松屋は横浜、銀座、浅草の3店体制となった。大阪では阪急百貨店(現阪急阪神百貨店)が先行してターミナルデパートを成功させており、浅草という下町に立地する新機軸の庶民的な百貨店を目指した。

 流行やデザインの斬新さに重点を置いた銀座店とは対照的に、浅草店は婦人や子供を対象とした大衆百貨店を基本に置いた。その目玉となったのは日本初の屋上遊園と直営の大食堂だった。屋上遊園は小さな動物園と遊戯施設を配置。1回10銭で2周できる豆汽車をはじめ、屋上の両端を往復するゴンドラまであった。大食堂は、阪急百貨店を参考に、従来の委託でなく直営の方式を採り入れた。調理人を自社で養成し、肉や野菜を自前で調達した。農園経営を自ら手掛けるほどの力の入れ方だった。

 銀座店、浅草店ともに、当初の売り上げ目標を超える業績を続けたが、徐々に売り場供出など営業統制が進んだ。戦時色が強まっていく。

 3代徳兵衛は1938年、27歳で社長に就任した。名古屋地裁の判事を務めていたが、松屋に呼び戻されて、その後は36年間、社長として在籍した。戦中に銀座店と浅草店の被災、戦後に銀座と横浜の2店が進駐軍のPX(米軍内で飲食物や日用品を売る店)として接収された。多くの従業員を抱えながら、売り場の大部分を奪われた接収は戦後の7年間に及んだ。数々の存亡の危機を乗り越えて再建に尽力した。

(敬称略:繊研新聞本紙20年1月20日付)



この記事に関連する記事

このカテゴリーでよく読まれている記事