繊維専門商社から、化学品や機械も扱う専門商社になった蝶理は、1959年に株式上場し、高度経済成長の波に乗る。62年度は1000億円だった売り上げは、69年度には3000億円を超えるなど急成長した。
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度重なる経営危機
しかし、次第に時代のうねりに飲み込まれていく。70年代の日本は列島改造ブームで地価が急騰し、オイルショックでインフレが加速した。金融緩和により企業の不動産や株式投資が活発になり、蝶理もそこに加わっていく。
「衣・食・住・レジャーの生活関連分野の大型商社」を目指し、ハンバーガー店を出し、山口市には大規模レジャーランドを建設した。大阪府吹田市と川崎市にはニュータウンを作るなど、事業を多角化する。
政府は不動産バブルに対応し、融資を規制した。蝶理は資金繰りに行き詰まる。74年、当時の主力4行に資金応援を要請し、主力取引先である東レと旭化成工業(現旭化成)、帝人にこの要請の信用保証を依頼した。旭化成工業から社長を招き、経営の効率化と減量化を進める。
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