毎日がおしゃれ記念日【6月1日から15日】(出石尚三)

2017/06/12 06:30 更新


 人はなぜ、自分の誕生日だけは忘れないのか。それは今自分がここに在ることの、たった一つの記念日だからでしょう。年に一度のバースデーは、いくつになってもうれしい。最高の記念日であります。誕生日をはじめとして、「記念日」は誰にとっても永く記憶に残るものです。

 もし、そうであるなら、毎日が「記念日」だとすれば、どんなに素晴らしいことでしょう。例えば「おしゃれ記念日」。例えば「ファッション記念日」。毎日が「おしゃれ記念日」なら、もっともっと人生は楽しくなります。そんな思いから、毎日の日付のなかから「おしゃれ記念日」を探してみました。いわば「日付のあるおしゃれ物語」。さて、今日はいったい何の「おしゃれ記念日」なのでしょうか。


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6月1日 『製材所の秘密』に登場するノーフォーク・ジャケット

 1879年6月1日はF.W.クロフツの生まれた日です。フリーマン・ウィルズ・クロフツは英国の推理作家。

 彼はこの日、アイルランドのダブリンに生を受けています。父は陸軍軍医。ただし、父は若くして世を去ったため、母は再婚。それで北アイルランドのアルスターに移転しています。


 

 1919年に大病を患い、長期の入院を余儀なくされています。この闘病生活が退屈だったので、推理小説を書き始めたという。それが1920年6月に発表された『樽』。今なお、推理小説の古典とされています。『樽』が好評だったので、1921年に『ポンスン事件』、1922年に『製材所の秘密』を発表。



 クロフツの小説にはよく、列車にまつわる話やトリックが出てきます。これはクロフツが以前、鉄道会社に勤めていたことと関係があるのでしょう。『製材所の秘密』の中に、こんなくだりがあります。

 「ゆったりとしたグレーのノーフォーク・ジャケットとニッカー・ボッカーを着け、帽子はかぶっていない」。これはある男の姿の描写。1920年代のはじめには、ノーフォーク・ジャケットは、それほど珍しい服装ではなかったのでしょう。


6月2日 勲章の重みと正装の仕立て

 1953年6月2日は、イギリスで戴冠式が行われた日です。現国王のエリザベス2世が新しい国王になるための戴冠式。日本からは、皇太子殿下(今上天皇)が出席されました。



Ints Vikmanis / Shutterstock.com

 場所はロンドンのウェストミンスター寺院で。この日は小雨の降る天候だったそうです。この戴冠式をきっかけとして流行になったのが「コロネーション(戴冠式)・カラー」。「エリザベス・レッド」「ボオ・ブルー」「マーガレット・グリーン」「プリンセス・グレー」「スパン・ゴールド」の5色だったのです。

 戴冠式での正装は、ひと時代前のコート・ドレス(宮廷服)。一般の参列者はフロック・コート(写真下)、または、モーニング・コート。もし、勲章を持っている人は、勲章を胸につける。




 勲章の数によっては、かなり重くなると、上着のどちらかが下がる。それで、地位ある人の正装を仕立てるには、勲章の種類と数をあらかじめ聞いておくのだそうです。勲章を並べて着けても、服が下がらないよう仕立てるために。


6月3日 プリンス・オブ・ウェールズ・チェックの伝説

 1937年6月3日は、ウィンザー公とシンプソン夫人とが結婚式を挙げた日です。




 ウィンザー公は以前のエドワード8世であり、さらにその前にプリンス・オブ・ウェールズ、つまり英国皇太子であった人物。ジョージ4世の子息、エドワード7世の孫でもあります。



ウィンザー公ことエドワード8世


 第2次大戦中、ドイツ軍はウィンザー公の誘拐を計画していたとの説があります。その命令を受けたのがヴァルター・シェレンベルク。ヴァルター・シェレンベルクと仲良しだったのがココ・シャネル。世の中、狭いものです。

 プリンス・オブ・ウェールズ・チェックは、皇太子時代のエドワード7世が考案したとか。グレン・チェックに、赤のオーバー・プレイドを重ねて。後に、この赤を、ブルーのオーバー・プレイドに変えたのは、若き日のウィンザー公だったとも、伝えられています。




6月4日 ピカソが愛用したバスク・シャツ

 1937年6月4日は、ピカソ作「ゲルニカ」(写真下)が一応の完成をみた日だと考えられています。パブロ・ピカソの最大傑作とされる絵画で、現在はスペイン・マドリードのソフィア王妃芸術センター国立美術館所蔵となっています。



tichr / Shutterstock.com

 1937年は、スペイン・ビスカウ県ゲルニカがドイツ軍の空爆によって破壊された年。ピカソ自身はパリにいて、祖国の悲惨な知らせに悲しみました。その憤りから絵筆を執ったのが、「ゲルニカ」だったのです。「ゲルニカ」を描こうとしたのは、1937年5月1日と考えられています。

 それというのも、当時ピカソと一緒だったドラ・マールが絵の工程を記録していたから。「ゲルニカ」は大作で、ピカソの指示でドラ・マールの手も一部加えられているといいます。その一方で、ドラ・マールは「ゲルニカ」を描くピカソの写真を撮っています。

 ピカソは「ゲルニカ」をスペイン政府に寄贈しようと考えていたそうです。が、スペイン政府は「材料費」の名目で、15万㌵を支払ったと伝えられています。



パブロ・ピカソ
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 ピカソ自身はバスク出身ではありませんでしたが、バスクに愛情を感じていたようです。余談ですが、クリストバル・バレンシアガはバスクの出身です。

 生前のピカソが愛用したのがバスク・シャツ。昔、バスクの漁師の人たちが好んで着ていたシャツのことです。大胆な縞柄が特徴の、厚手ジャージー製の、プル・オーバー・シャツです。



スペイン・バスク(自治)州のサン・ファン・デ・ガステルガチェ


6月5日 バルドーに愛されたデザイナー

 1917年6月5日は、フランスのオートクチュールデザイナー、ジャック・エステレルが生まれた日です。ちなみに、ジャック・エステレルはビジネスネームで、本名はシャルル・マルタンといいました。

 マルタンはもともと貿易会社の社長だったそうです。一時期は作曲家としても活動していました。1950年にカンヌでルイ・フェローと偶然に出会い、それがモードの世界に入るきっかけになったと伝えられています。



By Michel Bernanau (grand père de Oolong06400 ref)


 「ジャック・エステレル」としてフォーブル・サントノーレにメゾンを開いたのは、1953年のこと。その後ブリジッド・バルドーの映画衣装などを仕立てています。

 また、1964年の東京オリンピックの女子選手のユニフォームを手がけたのも、ジャック・エステレルだったのです。



6月6日 モダンなポロシャツの王、ビヨン・ボルグ

 1956年6月6日はビヨン・ボルグが生まれた日です。スウェーデンのテニス・プレーヤーで、この日、ストックホルムに近いセーデルテリエに生まれています。

 ビヨン・ボルグは1974年、全仏オープンで優勝。これが18歳のときのこと。翌75年にも同大会で優勝。さらに76年、77年にはウィンブルドンで連続優勝を果たしました。80年のジョン・マッケンローとの熱戦は、テニス史上に残る名勝負として、今に語り継がれています。



 「深刻になるな。真剣になれ」。これがテニスに向かうビヨン・ボルグの姿勢であったといいます。

 そんなビヨン・ボルグが愛用したテニスウェアは、モダンなポロシャツ。身頃は白、襟には黒やブルーの色があしらわれていました。ビヨン・ボルグはモダン・ポロシャツの王とも言えるでしょう。


6月7日 ボオ・ブランメルが薄糊を配したクラバット

 1778年6月7日はボオ・ブランメルの生まれた日です。本名はジョージ・ブライアン・ブランメル。

 今、辞書で「ボオ・ブランメル」(Beau Brummell)を引くと、「しゃれ者」と出ています。あまりに着こなしが見事なので、人々が「ボオ・ブランメル」と呼んで、それが通称となったものです。

 1870年代の英国皇太子、後のジョージ4世のおしゃれの先生だったのが、ボオ・ブランメルなのです。ジョージ・ブライアン・ブランメル(写真下)は若い頃から抜きん出たしゃれ者で、学生時代のあだ名は「バック・ブランメル」。「バック」(buck)にも「しゃれ者」の意味があります。




 ボオ・ブランメルには数多くの逸話が残されています。が、その中からひとつだけ選ぶなら、やはりクラバット(cravat)でしょう。クラバットはもともとフランス語で、今のネクタイに相当します。が、当時の英国でも「クラバット」と呼ばれたのです。もちろん、「ネック・クロス」の言葉がなかったわけではありませんが。

 ボオ・ブランメルはより立体的、より流麗な結び方のために、クラバットに薄糊(のり)を配したそうです。これはボオ・ブランメルの発明でありました。

 「ボオ・ブランメルは、結び違えたクラバットを投げ捨てた…」と、伝記作家が書いているのは、それが糊づけされたクラバットだったからです。


6月8日 帝国ホテルとボヘミアン・タイの関係

 1887年6月8日は、犬丸徹三の生まれた日です。犬丸一郎の父でもあります。

 犬丸徹三は今日の、帝国ホテルの栄光を築いた人物でもあります。ひとつの例を挙げるなら、いわゆる「バイキング形式」でしょうか。

 今のバイキング形式は帝国ホテルの創案。犬丸徹三が村上料理長に提案したのが元になっています。1957年に犬丸徹三はデンマークを訪問。この地で「スモーガスボード」に出合う。これは北欧で「一度にずらりと並べる料理の出し方」のこと。これを帝国ホテル風に仕上げたのが、現在の「バイキング形式」のはじまりなのです。



写真はイメージ


 ほかに帝国ホテルで忘れられないものに、「帝国ホテル旧館」があります。帝国ホテル旧館を設計したのがアメリカのフランク・ロイド・ライト。1867年6月8日にウィスコンシン州に生まれています。年こそ違うものの、犬丸徹三と同じ日に生まれています。

 フランク・ロイド・ライトが好んだものにボヘミアン・タイがあります。スカーフ状のネクタイで、これを襟の下に、ゆったりと蝶結びにするもの。戦前の芸術家が好んだネクタイでもあります。


6月9日 音楽家と燕尾服の謎

 1904年6月9日はロンドン交響楽団が誕生した日です。「ロンドン・シンフォニー・オーケストラ」。もう少し正確には、この日に第1回のコンサートが開かれています。ロンドンの「クイーンズ・ホール」で。指揮はハンス・リフターでした。



トラファルガー・スクエアでリハーサルするロンドン交響楽団


 ロンドン交響楽団は時に「女王陛下のオーケストラ」とも呼ばれます。事実、名誉総裁はエリザベス女王なのです。1977年からの総裁はカール・ベーム。1987年からは、レナード・バーンスタインが総裁を務めています。ロンドン交響楽団による日本公演は1963年に行われています。

 ロンドン交響楽団に限ったことではありませんが、クラッシック音楽家はたいてい燕尾(えんび)服(写真下)を着ることになっています。なぜなのか。これは昔からの伝統ということなのでしょう。音楽を聴いてくれた人に敬意を表すための正装。それが燕尾服なのです。




 燕尾服は「イブニングドレス」とも呼ばれます。必ず白い蝶ネクタイを結ぶところから、「ホワイトタイ」と呼ばれることもあります。


6月10日 ブレザーの始まりはザ・ボートレース

 1829年6月10日は、オックスフォード大学対ケンブリッジ大学のボートレースが行われた日です。場所はもちろん、イギリスのテムズ川で。この日はテムズ川のハンブルドン・ロックからヘンリー・ブリッジまでの距離。結果は14分30秒でオックスフォード大学の勝ち。もっともこの年から、毎年開かれるようになったわけではありません。両大学のボートレースが恒例になるのは1856年からのようです。



オクスフォード大学のボートクルー(2013年)


 今では「ザ・ボートレース」といえば、この二つの大学のボートレースを指すほど有名になっています。1877年には接戦で勝負がつかなかったこともあるとか。

 そして、今の「ブレザー」(blazer)が生まれたのも、この頃のことでしょう。ケンブリッジ大学レディ・マーガレット・ボートクラブの選手が、スクールカラーの赤い上着を着た。それが「ブレイズ」(blaze=炎)のように見えたというのです。




6月11日 ジャッキー・スチュワートが愛用した高貴なるタータン

 1939年6月11日は、ジャッキー・スチュワートの生まれた日です。ジョン・ヤング・ジャッキー・スチュワートはこの日、スコットランドのウェスト・ダンバートンシャーに誕生。「フライング・スコッツ」と呼ばれた自動車レーサー。1972年にはナイトの称号が与えられています。

 レーサーとしてジャッキー・スチュワートが登場するのは63年のこと。それ以前には射撃の選手だったそうです。66年には「モナコ・グランプリ」で優勝。同じ年の「富士スピードウェイ」でも優勝しています。ジャッキー・スチュワートが愛用したものに、タータン・チェックがあります。これはスコットランド人として当然でもあったでしょう。




 スコットランドには昔から、「ロイヤル・スチュワート」の柄があります。これはスコットランドの「スチュワート王家」専用の柄であったもの。14世紀にさかのぼる、伝統柄のひとつ。赤地にグリーンやパープルの格子を配した柄のことです。



ロイヤル・スチュワート


6月12日 アンソニー・イーデン・ハットの伝説

 1897年6月12日は、英国の政治家、アンソニー・イーデンの生まれた日です。ロバート・アンソニー・イーデンはこの日、ダラムでバロネット(準男爵)の家柄に生まれています。

 ウィンストン・チャーチルのもとで外務大臣を務め、後に英国首相の座に就いています。当時の英国紳士の代表でもあって、常にスリーピース・スーツと細巻きの傘を手放さなかった人物でもあります。



アンソニー・イーデン


 アンソニー・イーデンが好んだスリーピース・スーツはシングル前の3つボタン型で、上2つ掛け。しかも、片前にもかかわらずピークトラペル。が、これはあまり注目されることがなかったようです。

 しかし、その一方で人気になったのが帽子。いつも愛用していたホンブルグハット(写真下)。そのために今なお「アンソニー・イーデン・ハット」の呼び名があるわけです。アンソニー・イーデンはダーク・ブルーのホンブルグをいつもかぶっていた。つまり「アンソニー・イーデン・ハット」は、形よりも色に重点が置かれていたのです。



アメリカのジャーナリスト、ロバート・ユーイング


6月13日 トーマス・アーノルドとラグビー・ジャージーの物語

 1795年6月13日は英国の聖職者、トーマス・アーノルドの生まれた日です。教育者でもあった人物。トーマス・アーノルドの長男は、後に詩人となったマシュー・アーノルドです。

 「教えるべきは知識ではない。知識を得る方法である」これはトーマス・アーノルドの名言。



 1828年から42年まで、パブリック・スクールとして有名なラグビー校の校長を務めています。23年にフットボールの試合中、ラグビー校のウィリアム・ウェッブ・エリス少年が突然、ボールを抱えたまま走り出した。ここから今のラグビーが生まれたと伝えられています。ラグビーは激しいスポーツであり、その過酷な競技に耐えるためのウェアがラグビー・ジャージーであることは言うまでもないでしょう。


6月15日 英国上流階級のクリケット・キャップ

 1909年6月15日は、「国際クリケット評議会」が設立された日です。「国際クリケット評議会」にはイングランド、オーストラリア、南アフリカの代表が参加していました。 

 クリケットが英国を代表するスポーツであるのは、いうまでもありません。少なくとも16世紀には、今のクリケットの原型となる球技が行われていたそうです。イギリスのパブリックスクール「イートン校」では、クリケットが必修科目になっています。




 つまり、どちらかといえばイギリスの上流階級が好むスポーツでもあるのです。ビクトリア時代の英国は植民地政策をとった時代でもありました。その結果、クリケットが世界の各地にも伝えられたのです。インドでは今なおクリケットの人気が高いといいます。

 イギリスのクリケットの聖地は「ローズ・クリケット・クラブ」。これは18世紀に競技場を作ったトーマス・ロードの名にちなんで、「ローズ・クリケット・クラブ」と呼ばれるのです。

 19世紀のはじめ、英国紳士はたいていシルクハットをかぶってプレーしたものです。それは頭にぴったりフィットした、前ひさし付きの帽子でありました。



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