「東の片倉(旧富岡製糸場)、西の郡是(現グンゼ)」。生糸輸出による外貨取得で製糸業が隆盛を極めた近代で、蚕糸業界を代表する企業を形容した言葉だ。富岡製糸場(群馬)が14年に世界遺産に登録されたことで関東における蚕糸の歴史や文化は認定されたと言える。同時に横浜港が生糸の輸出で栄えたことは想像に難くない。
世界的品質に到達
ではグンゼに代表された関西地方について考察してみよう。1885年、京都府の繭と生糸は国内の品評会で最低評価の「粗の魁(さきがけ)」と評された。「近代的で大規模な製糸会社が必要」と考えた波多野鶴吉は1896年、郡是製絲を京都府何鹿郡(現綾部市)に創業。三丹地方(現兵庫県北部)で地方創生としての蚕糸技術の向上に着手した。早くも1900年のパリ万博に出品した生糸が「金牌(きんぱい)」を受賞し、創業からわずか4年後に世界的品質に到達する快挙となった。
衰退を経て輸出再開
1868年開港した神戸では、茶に続いて生糸が輸出品目の地位を占めていた。1884年以降しばらくは兵庫県の振興策や1896年に生糸検査所の設置もあり期待されたが、関西の生糸生産量が少なく、神戸に生糸を扱う業者がいないことから衰退し、生糸検査所も1901年に閉鎖。
ところが明治から大正にかけて関西の生糸生産量が増加し、製糸業者は横浜までの運賃や生糸相場の変動への対応の面から、神戸港からの輸出再開を希望するようになった。1921年、神戸商工会議所内に「生糸市場委員会」、翌年「神戸生糸貿易促進同盟会」を設立。神戸からの生糸の輸出再開に向けた動きが活発になっていく。1923年9月1日に関東大震災で横浜港が壊滅的打撃を受け、グンゼから関係蚕糸業者への働きかけがあり、神戸港を代替として同月12日に早くも生糸の輸出が始まる。迅速な決断で神戸港からの輸出再開は実現した。
さらに2年後、「日本絹業博覧会」が神戸で華々しく開催された。生糸、絹織物、人造絹糸、機械類など約2万4000点が約5000を超す出品者から陳列され、49日間で計66万2359人を動員。陳列スペースの他に音楽堂や演芸館が建てられ、来場者でにぎわった。博覧会は最初で最後となったが、関西でも蚕糸絹業に期待を膨らませ、貿易の伸展に地域を挙げ尽力することが急務だったことがうかがえた。
筆者が勤める美術館には服飾史を代表する西洋のシルクドレスが多く収蔵される。もしかすると日本、いや神戸から海を渡った生糸も使われているのかもしれないと想像が膨らむ。
(次六尚子・神戸ファッション美術館学芸員)