先日お別れの会があった故塙昭彦元イトーヨーカ堂専務。大学時代は応援団長、ヨーカ堂入社後は労働組合の初代委員長、女子バレーボール部の監督と、親分肌の性分を生涯見せつけた。
衣料事業部が初めて減益になったときは丸坊主に。デニーズが赤字に陥ったときは、セブン&アイ本部がある四谷から家賃が安い地域に本社を移し、鈴木敏文代表(当時)をして「グループ企業がとんでもない」と言わしめた。
「そうは、おっしゃいますけど」。大抵の人が鈴木さんに反論できない中で、塙さんはこう言ってから持論を展開する。塙待望論が社内に広がる中で、突然に見える中国赴任。だが『人生、すべて当たりくじ』(自著)――逆境に負けず凱旋(がいせん)したものの、ヨーカ堂社長の芽は最後まで出なかった。
人には気を遣うが、遣われるのは極力嫌う。病状を隠し、もしものときも「誰も呼ぶな、話すな」と家族に言い渡した。ヨーカ堂時代を共に過ごした赤ちゃん本舗の河辺司郎会長は5月、塙さんと夫婦連れで旅行をしたのが最後に。今となれば先の旅行も「中止したら心配すると思い、無理して行ったのでは」と考えている。
(長)