昭和初期の長い不況を脱し、景気回復の兆しが見えたころ、海外販路の開拓にも乗り出す。1932年に中国・大連市、翌年に奉天市、35年にハルビン市、37年には新京(満州国の首都)に拠点を設けて事業を拡大していく。一方で同年7月、盧溝橋事件に端を発した日中の軍事衝突から、日本は戦時下に入る。戦局が激しくなるにつれ、竹馬商店も社員が徴兵され、業績は悪化していった。終戦間際の45年3月には米軍の神戸空襲により、店舗も商品も焼失してしまう。
【関連記事】【軌跡】《社会貢献をビジネスに 再び走り出すチクマ㊤》輸入毛織物商の先駆け
販売網の基礎作り
創業者の竹馬隼三郎は戦時中の44年1月、71年の生涯を閉じた。これに伴い、2代目社長に就任したのは竹馬凖之助。先頭に立って復興への道を歩み始めた。
竹馬商店改め竹馬産業は47年、毛織物登録49号をはじめ、毛糸、毛布、手編み糸などの指定繊維資材販売業、衣料品卸販売業の指定登録を商工省(現経済産業省)から受けた。愛知県の毛織物機屋に織物用原糸を販売するため、毛糸部を新設。翌年には日本毛織の大阪出張所開設を機に、隣接地の建物に日本毛織の取引商社として入居し、商売を広げた。
50年に羊毛製品の配給統制、価格統制が撤廃された。竹馬産業と日本毛織はそのタイミングを見計らい、純毛品の発売に踏み切る。高級紳士服地「リファイン・テックス」の販売再開に伴い、戦前の顧客との取引が復活。主要な百貨店では展示即売会を実施した。洋服商など取引先との結び付きも強めていく。
この記事は有料会員限定記事です。繊研電子版をご契約いただくと続きを読むことができます。
すべての記事が読み放題の「繊研電子版」
単体プランならご契約当月末まで無料!