カルージュで出会った、ダニエルさんのアップサイクリング・クリエイションに込められた未来への美意識。そこには、ラグジュアリーの再定義、あるいは新しいラグジュアリーの手触りが感じ取られた。
では、ジュネーヴが誇る伝統と格式の中に、それをどう見出すことができるだろうか。その問いを胸に、モンブランを望む美しいレマン湖の湖畔を歩きながら、わたしはもうひとつの扉を開けてみた。

静かなる記憶
美術館のような外観の The Ritz-Carlton Hôtel de la Paix ザ・リッツ・カールトン・ドゥ・ラ・ぺ。小さな思い扉の先に広がっていたのは、19世紀の優雅さと現代の静穏が交錯する空間だった。
吹き抜けのアトリウムに、曲線を描く階段。差し込む自然光は、やわらかく建物を包み込む。どこかデジャビュ感のある構造に、パリの〈ル・ボン・マルシェ〉を思い出していた。
自動演奏のピアノはフランツ・リストの《メフィスト・ワルツ》を奏で、サロンの雰囲気を満たす。
イタリア風の荘厳さと現代的ミニマリズムが調和したホール。白い大理石の壁に、グレイッシュな家具。そこに浮かぶように吊るされたシャンデリアは、まるで時間の結晶だった。宝石のようなガラス細工の煌めきには、時計の都市・ジュネーヴの精緻な美意識が封じ込められている。




ホテルの歴史を語りながら、館内を案内してくれたのは、ザ・リッツ・カールトンのマーケティングディレクター、ジョルジオ・コラディさん。彼の言葉に耳を傾けるうち、「ラグジュアリーホテル」というステレオタイプな概念が、静かにほどけていくのを感じていた。
創業は1865年とのこと。〈オテル・ドゥ・ラ・ぺ〉として、レマン湖畔に誕生したこのホテルは、ジュネーヴが国際都市として歩み始める時代と共に、外交官、芸術家、知識人たちを迎える“迎賓の館”となっていった。
1872年、アラバマ条約をめぐる米英間の国際仲裁においては、終結の晩餐会がこのホテルで開かれている。「平和=Paix」という名を冠したこの場所が、国際調停の舞台となったことは、ジュネーヴという都市の理念とも響き合う。
サロンの床は当時のオリジナルをもとに修復され、今日もさまざまな晩餐会やガラが催されている。単なるホテルにとどまらず、地域社会とつながるプラットフォームとしての役割も担う。
「私たちは歴史をそのまま保存するのではなく、時間のレイヤーとして織り込んでいるのです」とジョルジオさん。実際、インテリアは過去の再現ではない。現代の感性と対話しながら、重ねられた時間の記憶が、静かに息づいている。
創業時のモザイクタイルは、職人たちの手で丁寧に復元され、歴代オーナーが蒐集した調度品は、場の空気に溶け込んでいた。
時がとどまるギャラリー Galerie du temps suspendu
ザ・リッツ・カールトンの中でも、ジュネーヴのこのホテルは極めて稀な、わずか74室の構成。その小さなスケールは、まるで美術館のような密度と親密さを生み出している。
各フロアの回廊には、歴史的なゲストたちのポートレートをモチーフにしたオリジナルのタピストリーが並ぶ。それぞれ、サヴォワールフェール(職人技)を凝らして制作された一点物だ。
ジュゼッペ・ガリバルディ、ヴィクトル・ユゴー、そして――ひときわ気品をまとっていたのは、モナコ公妃グレース・ケリーを描いた一枚だった。

グレース・ケリー公妃のスイート Suite Grace Kelly
タピストリーに込められた記憶は、客室のドアを開け、伝説の空間へと誘う。ホテルに3つだけあるスイートのうち、もっとも広く、もっとも物語性をたたえる_それが「スイート・グレース・ケリー」
105㎡のフロアに、ベッドルーム、リビング&ダイニング、キッチン、大理石張りのバスルーム。バロック様式の暖炉は創業当時のオリジナルを保ち、アールデコの意匠とゴールドの装飾、特注家具が、往時のエレガンスを静かに語る。
そして、バルコニーに立てば、きらめくレマン湖とモンブランの壮大なパノラマがひらけていた。この場所でグレース・ケリーが家族と過ごしたひととき――
懐妊中、咄嗟にエルメスのバッグでお腹を隠したそのジェストが「ケリーバッグ」の名の由来となった逸話を、ふと思い出した。
このスイートの窓辺で、ハリウッドの女優からプリンセスとなった彼女が子供たちと見つめた光景。それが、自分の記憶のように、なぜか親密に感じられてくる。
「プリンセスにふさわしい眺め」と讃えられるこの空間で、日常と非日常、歴史と現在が、やわらかく重なってゆく。




ローカルなカルチャーと、ラグジュアリーの交差点
高級ホテルの既成概念とは異なる、新しいラグジュアリーの価値軸。それは、“観る”、“探求する”、“味わう”という感覚体験へと向かっている。
ホテルのグランドフロアには、ジュネーヴの現代アートギャラリー〈Gutmans Gallery〉とのコラボレーションによる展示が常設されている。
わたしがここを訪れた時は、ジュネーヴ在住のポーランド人画家エワ・センチャワによる油彩画が飾られていた。描かれていたのは、街のランドマークである《ジャルダン・ボタニック》――植物園の豊かな緑と陰影だった。その作品は、光の移ろいとともに表情を変えながら、まるで生きもののように空間に根づいていた。
ジョルジオさんによれば、展示は定期的に入れ替わり、オープニングには地元住民を招いたレセプションも開催されるという。アートは、観光客だけのためではなく、地域の文化として育まれているのだ。

もうひとつの体験は、スイスの老舗時計メゾン GIRARD-PERRGAUX ジラール・ペルゴとのコラボによるアトリエ(無料)。ここでは、ムーブメントを分解し、組み立て、そして時を刻む仕組みを肌で感じ取るワークショップが行われている。
購入ではなく、理解する贅沢。スイスの腕時計が持つ「時の哲学」に、実際に手を動かしながら触れることができるのだ。
それはまさに、ジュネーヴという街が育んできた精緻な技と精神を、文化として追体験するひとときだった。
ザ・リッツ・カールトンが提案するのは、消費でも所有でもなく、記憶の深部に残るような「経験」としてのラグジュアリー。
――そして、感性を刺激する体験の極みは(と、わたしは思うのでした)、“食”へと続いていく。
次回は、“廃棄ゼロ”を掲げ、地元の食材と真摯に向き合うイタリア人女性シェフ、フランチェスカの挑戦を味わいたい。
松井孝予
(今はなき)リクルート・フロムエー、雑誌Switchを経て渡仏。パリで学業に専念、2004年から繊研新聞社パリ通信員。ソムリエになった気分でフレンチ小料理に合うワインを選ぶのが日課。ジャックラッセルテリア(もちろん犬)の家族ライカ家と同居。