今年の3月11日で、東日本大震災の発生から3年を迎える。今なお、約28万人もの人々が故郷や住み慣れた家に戻れずに苦難を強いられているが、被災地では一歩ずつ、復興に向けた歩みが確実に進んでいる。そこには町と人、人と人、町と町が強く結びつき、復興の種となる場、物、事が存在する。ファッションビジネスも復興の一助となる種をまき芽吹き始めた。
大学卒業後、外資系コンサルタント企業やブータンの初代首相フェローとして実務経験を積んだ後、気仙沼ニッティングに立ち上げから関わり、法人化に伴い社長に就任した。被災地の経済に貢献できる事業とは。糸に込める復興への思いと合わせて聞いた。
自ら種をまく
11年3月、東日本大震災の発生時はブータンにいて、津波の映像を見た時は言葉を失いました。
コンサル時代1年目に東北で仕事をしていたので、東北には非常に思い入れがありました。ブータンで仕事をしながらも「自分は被災地のために何ができるだろうか」と問い続け、それまでの経験から、困っている地域の行政を産業面でサポートするという立ち位置の仕事であれば、自分の力を発揮できると考えました。
1年いたブータンから11年9月に帰国して、10月からコンサルとして被災地の復興プロジェクトに携わりました。しかし、現地で仕事をするほど行政ではできない事業の必要性を感じました。被災地では大手資本によるスケールの大きな復興計画がいくつも生まれては具体化されず消えていくんです。外から見れば震災でゼロベースになったことで新しいものが生まれる期待感はありましたが、内に目を向けると地元の人々は弱っていたんです。
行政は新しい事業のサポートはできますが自ら新しい種をまいて育てることは難しい。小さく生んで大きく育てるロールモデルなら他にも波及して新しいことが生まれます。「ならば、小さくてもいいから自分で何か具体的なことをしたい」と考えました。一向に進まない土地整備を待っていては遅いので、とにかくすぐに外からも注目され、地元の人々が継続して取り組める事業を作るべきだと思いました。
作り手の顔
糸井重里さんとはブータンにいた頃から親交があって、気仙沼ニッティングはプロジェクト段階から関わりました。同社は編み物の訓練を受けた地元の人々が編み上げる高級ニットの製造、販売会社です。経理など外注できる業務は東京糸井重里事務所に任せ、これまで商品開発にお金をかけてきました。お客さんに「やっぱりあそこのニットはすごいよね!」と思われたいですからね。
編み手は基本的に発注ベースの契約です。働き手は皆下請けでなく、プロ意識を持って仕事をしてくれています。納得いかなければ10時間かけて編み上げたものでも容赦なく自らほどいてやり直します。購入時にお客さんから一言メッセージを頂くことで「私のお客様」という意識が強まり、仕事がすごく丁寧になるんです。
おかげさまで、顧客は全国に広がりました。昨年までは「復興支援のため」の購入が多かったのですが、今年に入り「一生モノが欲しいから」「作っている人の顔や暮らしが見える。そういう事業にお金を循環させたい」という方が増えました。
現地で経験を重ねる中で、自分を含め外から異質なものが入ることで新しい化学反応が生まれることに気づきました。気仙沼に面白そうな会社があるからと興味関心を持った他の地域の人にも移り住んでもらいたいですね。編み手も固定メンバーだと内向きになります。若い子の入社も意識して地元の高校と連携した取り組みも始めました。今後はもっと多様な人材を増やしながらチームを活性化させていこうと思っています。
被災地に経済の自立は不可欠です。地元に雇用を生み、中長期的な視点で持続できる事業として成長させていきます。
みたらい・たまこ
85年、東京生まれ。東京大学経済学部卒。マッキンゼー・アンド・カンパニーを経て、10年9月から1年間ブータンの首相フェローとして観光産業発展に貢献。帰国後、一時マッキンゼーに復職し被災地プロジェクトに携る。12年6月から糸井重里事務所主宰の「気仙沼ニッティングプロジェクト」リーダーとして活躍し、13年6月から現職。