1945年8月まで続いた戦争でモリリンも壊滅的な打撃を受けた。空襲で本店、撚糸工場、東京・大阪・名古屋の各支店はほぼ消失し、全ての海外事業も失った。日用生活雑貨卸でしのぎながら、繊維商社としての活動が再開したのは47年から。戦前から実績のあるメリヤス、布帛製品、縫い糸、綿糸、スフ糸、学生服、足袋、綿織物、絹人絹織物、婦人子供服、作業衣などを扱い、再建に乗り出した。戦後の経済復興を追い風にミシン糸や穴かがり糸に使われるカタン糸、ナイロン手編み糸が成長。撚糸や染色の設備を増強していった。
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■独立採算から転換
当時の社内報「森林商報」には景気に一喜一憂しないで、一歩一歩地を踏みしめていく堅実経営の大切さを訴える記述がある。新しく始めた合繊が順調に伸びたこともあり、59年に売上高が150億円を突破、4年後には200億円を超えた。
70年12月、初めて中期経営計画を策定、以降定期的に先を見据えた事業計画を愚直に推進し、76年には売上高が1000億円を超えて1043億円になった。71年3月には社名をモリリンに変更している。漢字名だと材木業に間違えられることがあったためだ。各店や部門が独立採算で競い合ってきた体制がこれまで成長を引っ張ったのだが、弊害も出だしたため72年に商品別事業部制に転換、画期的な大改革となり、さらなる成長につながった。
2度のオイルショック、円高、日米貿易摩擦、高度経済成長、バブル崩壊、急激な円高の時代を経るなか、物作りの海外進出が加速する。同社は尾州産地をはじめとする全国の産地に繊維素材を安定供給するのと同時に、量販店などにアパレル製品を提供するため、様々な取り組みを進める。組織の合理化、扱い品目の多様化、生産地の海外シフト、物流システムなどだ。73年から75年には一宮、大阪、鳥取に相次いで物流センターを立ち上げた。
原糸やテキスタイル部門は産地生産工場向け原料販売中心からアパレル直商談後の原料販売へと進化していく。さらには取引先アパレル企業からの要望でOEM(相手先ブランドによる生産)での製品販売も拡大。アパレル製品部門は地方卸問屋向けに実用衣料の販売を行ってきたが、高度経済成長による大衆消費社会の出現で生み出された量販店の旺盛な需要にシフトしていった。カタログなど通販との取引拡大も収益の柱の一つとなっていった。
当時は新しい販売チャネルで、社内では危惧する声もあったが、チャレンジは成功、今ではテレビも含め通販はモリリンの大切な主要販路の一つになっている。88年には売上高が初めて1500億円を超えたが、バブル経済の崩壊で減収になった。しかし以降売上高は1000億円から1200億円の間で堅調に推移する。
バブル期にも踊ることのない堅実な経営を貫いた。本業以外に手を染めず、繊維業界で倒産が相次ぐなかでも、影響を最小限に食い止めた。
バブルの崩壊、「平成大不況」を機に大きな転換を図る。集散地問屋として閑散期に大量生産して備蓄し、シーズンになって大量販売するという創業以来守り続けてきた手法では、低成長期や消費が成熟した社会では通用しないと判断したのだ。実際91年ごろには全社で約120億円の在庫を抱えていた。過去の成功体験にしがみつきたい社員の意識を変え、「在庫管理に例外なし」をスローガンに在庫圧縮に取り組んだ。
■構造変化を見据えて
国内縫製メーカーの海外移転が進み、繊維資材の販売先は従来の糸問屋から付属商へと移った。さらに中国に進出した日本の付属商や縫製メーカーからは現地で縫製資材の受け渡しができる態勢を求められるようになる。モリリンは中国に営業拠点を設け、さらに合弁工場や協力工場を新設して、ミシン糸の現地生産・販売に転換していく。後にサプライチェーンマネジメント(SCM)の構築へと発展していくことになる。91年に青島事務所、94年には上海事務所を開設、宝山区には日本から輸出したミシン糸をストック、付属商や縫製工場からの短納期の発注に対応した。
92年に自社生産を始めた建築業向け防炎シートは「千尋シート」として全国展開していく。厳しい安全基準が定められているので国内各地に生産工場を稼働させて生産量を拡大し、高い国内販売シェアを維持している。2001年には中国・大連でブルーシート一貫生産工場を新設し、高い競争力を背景に国内販路を拡大した。
しかし日本経済が長期の停滞期に入り、繊維業界も構造的な変革を迫られる時代になった。同社は良好な財務内容を基礎に、「選択と集中」による立て直しに邁進(まいしん)する。トレーニング・ワーキングウェアや靴下の縮小に踏み切り、関係会社にもメスを入れ、肌着生産工場の清算などを行った。一方、市場環境の変化に対応して社員の営業力を高めるために各種の社内研修に力を入れていった。
モリリン流SCMの先駆けは03年にスタートした「物流改善プロジェクト」だが、その前に設立されていた上海森億服飾整理(01年4月開設)など中国各地に配置していた生産・物流拠点が基盤であり、繊維を取り巻く構造変化を見据え、それに対応するために着々と積み上げてきた戦略の系譜にあるのは言うまでもない。物流改善プロジェクトチームには森正志社長も取締役(当時)として参加、部分最適から全体最適への転換を図り、効率の高い物流ネットワークの再構築やコスト削減、顧客へのサービスレベル向上を目指すものとなった。
(繊研新聞本紙20年11月2日付)