25年、「オカヤマアワード」が復活します。19年まで開催した10年間で輩出した受賞者は147人。地域のアセットを発掘したアワードが、数年の空白を経て「ハイパー・オカヤマ・プロジェクト」の一環として再始動することになりました。私もまた起案と運営に関わっています。
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今なぜアワードか
本プロジェクトは、岡山にHYPE(熱狂や挑戦の気運)を生み出すために考案した複合的なプログラム。背景には、85年ごろに展開された「燃えろ岡山県民運動」があります。当時県内全ての市町村がスローガンを掲げ、地域活性に向けた県民運動が繰り広げられました。

今回はその理念をリファイニングし、政経塾やビジネスプランコンテストなども取り入れた新たな運動として再構築しています。そもそもアワードや賞レースという仕組みは、競争意識を高めたり、特定の領域に威厳を持たせたり、モチベーションを刺激する役割を持つことが多いと感じます。それは、企業や業界にとって必要な機能であり、個人やチームの成長を促す上で一定の意義があるでしょう。しかし、私たちが目指しているのはそこではありません。
オカヤマアワードが目指しているのは、地域そのものを肯定すること。受賞者の肩書きや実績以上に「岡山にポジティブな影響を生むか」という広い視点で選考するのが特徴です。あえて緻密(ちみつ)な評価基準を設けていないのは、既存の枠組みでは測れない価値まで拾い上げたいという意志の表れでもあります。アワードという形式を借りながら、地域の価値そのものを見つめ直す。そこから見えてくる課題を乗り越える契機となれば、と考えています。

村上龍『希望の国のエクソダス』に鋭い一節があります。「この国には何でもある。だが、希望だけがない」。未来を見失った中学生たちが、自ら新しい生き方を模索するなか、リーダーの少年が発した言葉です。豊かさは整っていても、未来への主体的な意志が希薄になる社会状況は、地方にも通底しているように思います。若い世代から「この街には何もない」「都会に行くしかない」という声を聞く場面は少なくありません。
憧れは自然な感情ですが、それが地元を見限る言動とともに語られる時には、一つの構造的な課題が浮かび上がってきます。この状況が放置されれば、地域は自らの価値を語る言葉を失ってしまいます。誰がどんな挑戦をしているのかが可視化されず、共有されなければ、「ここにいてもいい」という実感は育ちにくいからです。
こうした背景を踏まえれば、地域アワードの意義は改めて見直されるべきだと思います。地域内部から「自分たちの暮らす場所に価値がある」と発信される評価は、社会の活性に不可欠な役割を果たす可能性があるはずです。
地元民に変化を
外部のランキングや一時の話題よりも、地域の中で積み重ねられる営みや価値が言語化され、共有されていくことが必要ではないでしょうか。「私たちはこういう人たちを誇りに思う」「この街にはこういう価値がある」という評価の積み重ねが、地域の文化に新たな語り方や視点をもたらしていくはずです。
オカヤマアワードが、地域肯定の循環を意図的に生み出す場として機能することで、地元民の意識や行動にささやかな変化が生まれることを期待しています。こうした動きは、これからの地域社会をよりしなやかにひらく一つの契機になるのではないでしょうか。

