76年6月、平凡出版(現マガジンハウス)がメンズ誌「ポパイ」の創刊号で、カリフォルニアのファッションとライフスタイルの特集を組んだ。編集者の土橋昭紳が予測した通り、米・西海岸に憧れる若者は増えていた。
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順風満帆から一転
インポート商品を買う際、舶来品と呼ばれた欧州の高級品か、軍の放出品くらいしか選択肢がなかった時代、ビームスが仕入れる「普通のアメリカの服」は売れた。
77年に渋谷のファイヤー通りに2号店、78年に原宿1号店隣の2.5坪のスペースで米・東海岸風のプレッピースタイルを売る「ビームスF」も出した。81年、1号店が入居するビルの2階に「インターナショナルギャラリービームス」をオープン。「ジョルジオ・アルマーニ」「ピンキー&ダイアン」「マーガレット・ハウエル」など、ヨーロッパやニューヨークのデザイナーブランドを販売した。
70年代後半~80年代前半は、「ボートハウス」や「シップス」と並んでビームスでも「ロゴ入りトレーナー」(スウェットシャツ)が大ヒットし、店舗開発の資金ができた。84年にはフレンチカジュアルをテーマにウィメンズ「レイビームス」をスタート、85年以降は熊本と京都を皮切りに地方出店も開始した。
80年代後半には渋カジブームが起こった。日本初のストリートから生まれたこのトレンドは、全国の高校生~大学生に広がった。ビームスでも紺ブレが爆発的に売れた。売上高はどんどん伸びて利益も増えた。
好業績を背景に、89年に鈴鹿の8時間耐久レースでホンダにスポンサードした。幸運なことにその1回でチームは優勝した。電通を辞め、ビームスの専務になっていた設楽洋は鈴鹿でレース結果を見届け、意気揚々と東京に戻ってきたタイミングで、常務の重松理が辞表を出したことを知らされた。
大量離脱で人事一新
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