「服」は手に取ることができます。では、「ファッション」はどうでしょうか。両者は重なり合っていますが、同じではありません。その違いはどこにあるのでしょうか。
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評価と成立
日本で働き始めてから、私は服という「モノ」と向き合う時間が増えました。縫製の精度、素材の選択、パターンの合理性。良いか悪いか、丁寧か粗いか、着やすいか動きづらいか。服は具体的で基準があり、改善の方向も見えやすいです。

しかし、私の学んだことはファッションなのだと感じることがあります。良い服を作りたいのですが、それ以前に「どのようにすれば見てもらえるか」「どのようにすれば欲しいと思ってもらえるか」を優先する思考が身に着いているからです。
ファッション学科というと服のことを教えていそうですが、実際はそうとも言い切れません。私が学んだアントワープ王立芸術アカデミーでは、服を作る前に長い対話が続きます。コンセプトとリサーチを往復し、「その服は本当に作る価値があるのか」という問いが、制作以前に繰り広げられます。形が面白い、パターンが美しいという理由だけでは通りません。その服を社会に差し出す意味はあるのか。「作ってよい」と言われるまでが勝負でした。
評価されていたのは服としての完成度ではなく、「どのような構造で成立しているか」「その論理に整合性があるか」という点でした。そこから私は、ファッションは「成立させるもの」だと感じるようになりました。
服はモノとして良しあしで語れます。ファッションは「概念」です。教育の場では、その成立の仕方そのものが問われます。
重要な基礎体力
しかし、実際はこの抽象的な部分と具体的な部分が混ざりやすいと感じます。学生は服の制作に集中するからです。学生が強いテーマを掲げる時、そのテーマをそのまま服に落とし込むと、説明はできても、ファッションとしての成立が弱くなることがあります。
「なぜその形なのか」「なぜその素材なのか」「それは服でなければならないのか」。抽象的なテーマを具体的な服だけで解決しようとすると、作品は衣装のようになり、ファッションから遠ざかるという側面をはらんでいます。服の構造や素材には限界があるからです。

デザインが行き詰まる時、多くはこの混線が起きています。私もそんな時は、「今向き合っているのは、服か、それともファッションか」と問い直していました。服であるなら、モノの理解を深めればよいと考えます。ファッションであるなら、成立の構造を組み直さなければなりません。服以外の部分に改善点があるかもしれないからです。
この切り替えができるかどうか。具体と抽象を往復できるかどうか。それが、ファッションを学ぶうえでの基礎体力だと私は考えています。抽象と具体の間で手が止まったときは「今、自分が扱っているのはどちらなのか」と問い直してみる。そして二つを自在に行き来できる視点を育てること。私はそこに、ファッション教育の可能性を感じています。

