【すべては子供のために ファミリアの70年㊤】子供服変えた“アマチュアリズム”

2020/10/10 06:30 更新


 今年の4月12日、子供服のファミリアは創業70周年を迎える。売り上げは減少を続け、前期(20年1月期)は97億円とついに100億円を割った(過去最高は96年度の250億円)。今期は店の統廃合を進めるほか、創業して初めて百貨店と取引条件の交渉に踏み切った。しかしこれは、ファミリアを100年続けるための前向きな施策だ。現社長の岡崎忠彦は真っすぐ前を見据える。進むべきは、〝ニッチでリッチ〟。老舗のプライドをどれだけ捨てられるかだと繰り返す。立ち返るのは、創業当時の「すべては子供のために」という思いだ。

欧米の育児法に学ぶ

 1945年8月終戦。のちに創業者の1人となる坂野惇子は、疎開先の岡山県で、幼い娘を抱えたまま玉音放送を聞いた。夫、坂野通夫の消息を危惧する不安な日々。さらに46年2月、金融緊急措置令ならびに臨時財産調査令、日本銀行券預入令が公布された。当座の生活費は工面できても、惇子には財産税を納める余裕はない。助言を求めて父、佐々木八十八(のちにレナウン創業者)と幼なじみの尾上清(のちにレナウン理事長)に相談を持ちかけた。2人から出たのは意外な言葉だった。尾上は「もう昔の小嬢ちゃんではいけない。これからは自分の手で仕事をし、自分の力で生きていく、一労働者になりなさい」。父も「もう時代が変わったのだ。健康な体なら働くということはいいことだと思う」と提案。仕事を見つけようと決心した惇子だったが、生死も定かでない夫のことが気に掛かる。願いが通じたのか、しばらくして夫から「すみれの花が咲く頃に帰国できそうだ」とはがきが届いた。

 46年5月、親子3人は疎開先から阪急沿線塚口にある通夫の兄の借家に移り住んだ。空襲の被災後からすぐに疎開していた惇子らには、何一つ所帯道具の持ち合わせがなく、最低限の生活必需品さえも揃えるのが難しかった。収入を得なければと惇子が選んだのが、家で育児しながらできる洋裁だった。しかし、仕立て代を現金で請求する勇気がなく、お礼はいつも品物ばかり。9月ごろ、父から焼け残った軽井沢の別荘の荷物を引き取るように言われた。その中には、惇子が集めていたフランスの刺繍糸や英国製の毛糸、刺繍用の布地や洋服地、そして、まだ一度も履いたことのないハイヒール半ダースなどがあった。

 惇子は大量の手芸糸で、週1回、自宅で刺繍や編物を教えたが十分な収入にはならなかった。考えた結果、ハイヒールをケースに入れ、神戸三宮センター街の「モトヤ靴店」を訪れた。店主の元田蓮は、惇子の実家である佐々木家に出入りしていた腕のいい靴作りの技術者。元田が作ったハイヒールを誰かに売ってくれないかと頼むが、哀願するように拒む様子に惇子は困り果てた。ふと「娘がこんなに大きくなったのよ」と、子供の写真を取り出した。写真入れは、綿スエードの布地でまわりに小花の刺繍がしてある惇子の手製だ。「大したものですね。手仕事のものをお売りになったらいかがですか。うちの陳列ケースを提供しますよ」。思いがけない提案だった。

 惇子は早速、通夫やクラスメイトの田村江つ子に相談した。江つ子は義姉の田村光子にも話してみようと提案。3人とも著名な洋裁の先生の門下生で、手芸や洋裁の技術を身に着けており、物作りの喜びを知っていた。通夫や江つ子の夫、田村寛次郎も「これからは女性も家庭にじっとしている時代ではない」と、働くことを強く勧めた。光子の夫、田村陽も同意見だった。

 数日後、通夫、寛次郎、陽が集まり、具体的な方法を話し合った。「単なる手芸店ではなく、女性の特徴を生かし、覚えた新しい育児経験をもとに赤ちゃんや子供のためのものを作って売ればどうだろう」。通夫の提案にまず、惇子が賛成した。坂野夫妻は結婚した時、神戸・岡本の〝外人村〟と呼ばれるところに新居を構えた。外国人の子供がたくさんいて、娘を出産した際に外国人専門のベビーナース、大ヶ瀬久子に来てもらった。大ヶ瀬の育児法は、日本の伝統的な育児と異なる合理的な手法で、医学や心理学的にも根拠があり、赤ちゃんへの深い愛情に支えられたものであることに惇子は驚嘆した。江つ子も大ヶ瀬の友人に来てもらい、同様の方法で子供を育てる。彼女たちが気づいたことは、既製の日本のベビー衣料品は、赤ちゃんの心地よさよりも、従来からの習慣と観念だけで作られているということだった。「自分たちの手で赤ちゃんや子供にとって良いものを作りましょう」。全員が頷いた。坂野夫妻と交流があった村井ミヨ子にも声をかけ、モトヤ靴店での開店を目指した。

家族からの強い勧めもあり、女性4人で創業した。左から坂野惇子、田村光子、田村江つ子、村井ミヨ子

開店初日から想定超え

 48年12月4日、2台の陳列ケースだけのベビーショップ・モトヤが誕生した。赤ちゃんの肌着やベビー服、アップリケや刺繍付きのよだれかけ、エプロン、子供服など。手作りの上品なものばかりだったが、素人っぽさは否めなかった。街にはジングルベルが流れ、クリスマスツリーが飾られた戦後3年目の師走。敗戦のイメージは薄れかけていたが衣料品は十分でなく、洗えばすぐはげるような粗悪な服が出回っていたなか、ベビーショップ・モトヤの商品は異彩を放った。刺繍糸や生地に外国製の超一級品を使用したからだ。開店初日に想定を超える4万円を売り上げ、次の日も3日目も行列ができた。洗っても色落ちせず型崩れしない商品の評判は、日に日に口コミで広がっていった。

 経理業務に疎い惇子たちだったが、男性陣の指導を得ながら、少しずつ商売のコツを習得し始める。その成長ぶりを感じた元田は、独立を促した。間借り生活から丸1年、モトヤ靴店の隣のわずか3坪(9.9平方メートル)の店で新たに商売を始めた。間もなく、南隣の角地にあるレナウン・サービスステーションが撤収する話が浮上する。ここも元田氏の所有地で、この機会に4人の仕事を会社組織にして事業としてやらせたいと考え、熱心に勧めた。

 新会社を興すことに決まり、それにふさわしい社名が必要だった。彼女たちの胸中には、神戸の単なるベビーショップでは終わらない、という意気込みがあった。「全国のお母さんから本当に愛されるベビー用品のパイオニアになろう」。思いは同じだった。惇子はたまたま出会ったフランス人に「お国では家族のことを何と言うのですか」と質問してみた。「ファミリアと言います」。親しみやすくて新しい響きがあると感じた。英和辞典で調べるとFamiliarという英語もちゃんとあり、〝より親しい〟〝打ち解けた〟といった意味が記されていたことから「ベビーショップ・ファミリア」に決まった。こうして1950年4月12日、株式会社ファミリアが誕生した。外国語を社名にするのはまだ珍しい時代。ユニークな社名で、存在をいち早く印象付けた。

販売開始から2年足らずで株式会社化し、「ベビーショップ・ファミリア」をオープンする(神戸センター街店)

(繊研新聞本紙20年3月23日付:敬称略)



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