IFFセミナー「女性のキャリア」

2015/03/17 05:30 更新


≪JFW-IFF1月展・会場セミナー≫ 

 

講師:株式会社高島屋

代表取締役専務 肥塚 見春氏

FB業界の女性リーダー

〜私のキャリアと“転機”〜

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 高島屋の肥塚でございます。79年に入社いたしました。男女雇用均等法の導入前です。商いがしたいという思いで高島屋を選びました。今までに、17回異動を経験しています。35年強なので、2年に一度はどこかに異動している計算になります。これは高島屋のなかでも非常にレアなケースです。

(※講演の動画は約1時間です。同じ内容をテキストで読むこともできます。)

 ■20代で専門店へ出向、立ち上げから経験

 最初は日本橋でした。2年5ヶ月後に、26歳で、専門店に出向となりました。立川で、現在のルミネの場所です。2~4階に高島屋の専門店「セサビー」という専門店があり、そこのショップマネージャーでした。2年そこそこなので、当然、バイヤーやマネージャー経験はありません。本社からの指令は、“好きにやっていい。ただし、高島屋と同じことをしてはならない”というものでした。 

 販売しかしたことのない素人同然でしたので、自分達の感性を活かして欲しいものを集めようと思いました。立ち上げは、同期の女性二人。もう一人は課長、あと店長になる方です。一人は、名古屋で営業本部長をやっています。この3人で作ったコンセプトが“マインド25”。25歳のマインドであれば、どんな方もお客様にしようというものです。

 今となっては当たり前ですが、勤めている時はどんなものを着用し、オフはどんな趣味なのかと、ライフスタイル分析をしてショップを形作りました。セサビーという名前も、ロゴのデザインも自分達で決めました。扱うブランドも選抜しました。

 ただ、先にも述べましたが、経験がないので、当時全盛だったアンアン、ノンノンの端から端まで目を通し、気になるブランドや商品にアプローチするというやり方でした。巻末のブランド連絡先一覧を見てアポの電話をしていくスタイルです。もうひとつは、駅ビルなどを見て回り、気になる商品を見つけると、タグを覚えるというやり方でした。ただ、当時は携帯などがない。覚えるのは5つが限度なので苦労しました。

 電話でのアポは、高島屋の名前を出した瞬間に断られるケースが多かったです。返品リスクを嫌がられたからです。なので、高島屋の名前を出さずに交渉していました。逆に、支払いの段になると、「実は、弊社は、高島屋の子会社でして」というと相手は安心しましたね。

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講師:株式会社高島屋 代表取締役専務 肥塚 見春氏

FB業界の女性リーダー

〜私のキャリアと“転機”〜

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■昇進試験前の妊娠発覚、子連れで展示会回り

 予期せぬこと事態もありました。店のオープンが10月だったのですが、妊娠が判明しました。出産予定日が9月2日で、間が悪いことに8月末に昇給試験がありました。高島屋では、昇給昇格試験が男女学歴に関係なく、定期的にやって来ます。ちょうど、25、26歳の時に一回目がきます。人事は、妊娠中で危険なので、試験を受けさせないと判断した。その時の本社の常務でセサビーの社長が、石原一子でした。一部上場で初めて女性の重役になった方で、ご自身も二人お子さんがいらっしゃいました。彼女は、人事に「妊娠、出産は病気ではない。受験させろ」とおっしゃったそうです。

 産前休暇でもトラブルがありました。いつもらえばいいかわからないし、責任者として忙しかった。上司もわからない。そうこうするうちに、8月15日に起床すると破水して急遽入院することになった。今は、戒めとして、こんな危ないことはしてはいけないと周囲に言っています。

 10月にオープンしました。3階の婦人服では、「コムサデモード」や、専門店ブランドを品揃えしました。「アフタヌーンティー」のティールームの一号店は、実は、セサビーでした。2階では、創業したばかりの「4℃」だとか、アフタヌーンティーの雑貨などを扱いました。じつは、そこで大失敗しています。仕入れは、完全買取だったのですが、1000万ほど残してしまいました。予算と実績にはギャップがあったからです。ほんとに辛くて、ほとんど眠れない日々が続きました。結局、日本橋に買い取ってもらいました。

 反省して、仕入れ方を変えました。100万の予算の時は、70から80万くらいしか買わない。足りない分は、そのつど仕入先に買いに行きました。取引先は、マンションメーカーなので、在庫を持っている。大判の風呂敷で背中にしょって持って帰り、5時から店頭に出すという商売をしていました。忙しかったです。

 百貨店は週休二日制だが、専門店は隔週休二日制です。営業時間も百貨店は当時6時か6時半なのに対して9時まで。要員か少ないから9時から展示会周りの日々でした。時間が足りないから休みの日にも展示会に行く。そうすると、子育ての時間がなくなる。だから、子供を連れて行きました。背中に背負って、青山や原宿を歩き回りました。展示会では、社長達に大変可愛がってもらいました。

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講師:株式会社高島屋 代表取締役専務 肥塚 見春氏

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〜私のキャリアと“転機”〜

■パートナーの海外留学で退社、そして再雇用

 ただ、そういう無茶をすると犠牲者がでてくる。近所のお母さん方、父母、主人、妹夫妻、皆に手伝って回していた。専門店時代に二人目の子供ができた。そしたら、母が心臓を悪くして倒れてしまった。そうなると回らない。

 辞めようかと迷ったけど、当時の店長が理解のある人だった。「がんばるなら、何時に帰ってもいい」と言ってもらえた。でも、かえって、どうにもならなくなった。妹からは、「お姉ちゃんが辞めれば、すべて解決する」と言われたこともありました。そんな時に、職場に主人から電話がありました。「アメリカへの留学が決まった。条件は家族同伴だ」。

 その時は、神様が辞めろと言っていると思った。そして、実際に一回辞めました。だから、中途採用です。運がよかったのが、辞めた時の社長も石原だったことです。

 石原のところへ緊張しながら、代りの人員を手配してもらいに行きました。石原が一番怒るのは、女性が辞めるといった時です。一通り、聞いた後、「再雇用があればやめなくてすんだなぁ」とおっしゃる。多分、石原のトップダウンだったのでしょうが、「再雇用制度を来年作る。戻る気があれば、覚書に署名をして行け」と言われました。

 再雇用制度は、私のために出来たと言われているが、実はそうではありません。アメリカに行った年に男女雇用均等法ができ、業界内にも伊勢丹や西武には既にあった。私は、制度創設のきっかけになったにすぎないと思っています。

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■店を作った経験を買われマネージャーに

 再雇用後は、日本橋に戻りました。セサビーで苦労したことが名刺代わりになりました。50歳になって、私の分岐点は、セサビーに出向したことだと感じています。そして、新宿の新店準備室に出向になりました。平成5年のことです。セサビーの出向経験がなければ、多分、準備室には呼ばれなかったと思います。大小を問わず、店を作った経験を評価されたのでしょう。

 平成8年のオープン時には、40歳です。婦人服・下着のマネージャーでした。その年は高島屋の人間なら忘れない年でした。商法違反で当時の社長が辞めました。この年の10月に新宿高島屋はオープンしています。

 マネージャーになって学んだことは、ビジョンを持つことです。別に、難しい言葉でなく、誰にでもわかる簡単なものでいいんです。その時は、“下着売り場で日本一になろう”でした。下から数えたほうが早い売り場でしたが、真剣に言っていました。言い続けると、部下が黙っていても伊勢丹などの有力な売り場を見に行くようになりました。そこから、何かを学んで、売り場に活かそうと努力し始めました。

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講師:株式会社高島屋 代表取締役専務 肥塚 見春氏

FB業界の女性リーダー

〜私のキャリアと“転機”〜

■“片腕”として組織を学んだ副部長時代

img-003 その後、平成15年に、横浜店に異動になりました。紳士服・紳士雑貨・スポーツ販売部の副部長です。この時代に何を学んだかと言えば、“中間管理職のなんたるか”です。上には部長、下にはグループマネージャーがいる。その間で、組織とはこういうものなのかというのを学びました。上司の部長は、私と同時に異動してきました。にこりともしないので、あだ名は“ダースベーダー”でした。

 ただ、この方が、部長時代のロールモデルになりました。組織の運営の仕方を本当に理解している方でした。白黒をはっきりさせる人で、「決められないなら、俺が決める」と言う。それは嫌なので、みんな必死に議論する。でも、決めただけではだめで、「責任者は誰で、いつまでにやるんだ」とさらに詰めてくる。難しい議題でも先延ばしは許してくれませんでした。

 副部長の大切な役割は潤滑油になることです。部長の方向性に従い実現させていく。また、部下からの面倒事も、ある程度調整しながら処理する。部長の方針に完全に納得できなくても、部長に押し付けられたと悟られてはいけない。副部長は同意してないと思われると不和のもとになる。組織に船頭は一人でいい。翌年、部長になりました。その時に、ダースベーダーに言われのが、「よくがんばった。今度は、個性を出していい」。よく見ていると思いました。

■不祥事で記者会見、社内からの叱責

 部長時代に学んだのは、“責任”です。忘れもしない1月。オードリーヘップバーン展を催していました。会場での物販も私の部門の担当でした。催事が終わって判明したのは、クレジットカードの控えが紛失したことでした。256件です。口座番号は下4桁が伏字なので、事故は起こる可能性は低いが、お客様に不利益な情報はすぐに開示することにしました。五大紙に社告を出し、当時の店長には二度も記者会見をお願いしました。商法違反事件以来、久々に危機管理委員会も設置されました。聴聞の場では、本社の専務常務が勢ぞろいした中、「商法違反以来、高島屋のブランドを失墜する事件」と叱責されました。 

 懲戒を覚悟していました。ご迷惑をかけたお客様にはお詫びの手紙だけでなく、閉店後に電話をかけることを毎日一ヶ月続けました。私と副部長、総務や人事にも手伝ってもらい、閉店後から9時半までかけ続けました。そして11時から反省会という日々でした。そして、私が最後にしなければならないことは、部下への説明です。朝礼で、当時部下が260人くらい、その3,4倍の派遣の方、合わせて1000人弱に説明しました。関連の売り場の女性は、泣き出す方も多かった。部下を泣かせるくらいなら、もっと厳しくやるべきだったと心底後悔しました。

 

img-006■社の常識は世の非常識という意識

 その後の異動で、ディビジョン長になりました。子供服・趣味雑貨・ホビーディビジョンで、全19店舗のその分野の責任者です。どの店舗でもリニューアルがあれば、バイヤーのトップとして出て行く立場でした。当時、新宿店の改装がありました。平成18年です。この時の営業本部長が厳しい人でした。就業は9時半でしたが、朝の8時30分にはディビジョン長はいないといけない。専務に呼ばれたら、駆けつけないとひどい目にあう。

 週に一回、専務に役員室でプレゼンするのですが、よく怒られました。専務の反応は、3秒で秒殺か1時間半怒られ続けるかの二択でした。でも、企画書には全部目を通してもらえました。私の場合、全部、1時間半コースでした。ストレスは溜まりましたが、悪い点を指摘してもらえたのは、ありがたかった。厳しいが、専務にはロマンあると感じ、ついて行く事ができました。

 その後、広報IR室室長になります。驚きました。ずっと現場と思っていた。本社のスタッフになるにしても営業関係だと思っていました。財務の知識は皆無でしたが、優秀な部下に恵まれました。部下がすべて年下だったのも初めて経験でした。外から見える高島屋像に意識が向いたのは収穫でした。

 社長と海外出張に出かけた時に、海外からはそんなにおいしい会社に見えてないだと知りました。労力のわりに、儲けが少ない企業だと見られていました。高島屋の常識は、世の非常識という意識を持つようになりました。3月の異動直後に、東京店で個人情報の紛失事件が起きました。その年、8回くらいお詫びの記者会見した覚えがあります。横浜での経験が生きました。次の年に、一年間だけ営業企画部長を経験して、岡山高島屋に移りました。

≪JFW-IFF1月展・会場セミナー≫ 

講師:株式会社高島屋 代表取締役専務 肥塚 見春氏

FB業界の女性リーダー

〜私のキャリアと“転機”〜

■岡山高島屋トップに白羽の矢

 なぜ、私か。岡山高島屋には、他人資本が入っています。岡山の優良企業である両備ホールディングスから33.4%の資本導入を受けています。会長は、両備ホールディングスの当時の社長の小嶋さんでした。小嶋会長と当社の会長の鈴木は長年の盟友で、小嶋さんからの条件が、次の社長は女性とのことでした。それで白羽の矢がたった次第です。当時、執行役員になっていて、単身赴任になるようなことはないと思っていました。異動の打診があった時は迷いました。営業に戻りたいという気持ちはある、でも心臓を患った母もいる。色々と電話をしました。主人は好きにしろと言いましたが、三人の娘は泣きながら反対しました。母は、会社というものをよく理解していたので、賛成してくれました。最後に、妹に電話した時に、「もう行く覚悟なんでしょ?」と言われて吹っ切れました。その日に社長に電話しました。

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 岡山高島屋は2億5000万の赤字会社企業でした。エスカレーターを降りた場所の床が真っ黒に汚れていて、外装にも不満な点がありました。2月の段階では、私の管轄外でしたが、前任の店長に電話して、外装用のテントを本店と同じく赤色にし、床回りも掃除しました。テント代に250万、掃除に70万ほどかかりましたが、前任者が出来た人で、赤字にのせていただきました。

 また、広報時代にマスコミの影響力を知っていましたので、ベテランの広報に頼んで、新聞、テレビ、ラジオ、すべて挨拶周りをしました。その際に、「岡山社長初の女性です。是非、取材をお願いします」とお願いしました。ただし、取材場所と写真は岡山店で、と注文を付けて。実際には店は変わっていませんが、変わるんだというイメージを植えつけるのには成功しました。同時に、商品とサービスとおもてなしを向上させるプロジェクトも立ち上げました。皆がんばってくれた。いまでも、“サービスしたいチーム”は残っています。身近な挨拶などにも力を入れ、社内で行っているサービスミシュランという各店を採点する制度で、前年はビリから2位でしたが、上から2位に躍進しました。

■赤字の解消に挑み、賞与・労働条件の単独交渉

 一番の課題は、赤字の解消でした。両備ホールディングの会長からのアドバイスもあり、賞与のカットをしました。ジャンプするためには、一度しゃがまないといけないからです。それまで、賞与交渉は中央で一括でした。なので、赤字でも出る。単独交渉に切り替えました。非常に辛い判断でした。出せた賞与は、わずか0.2ヶ月でした。現在の労働条件も、高島屋は1840時間ですが、岡山は1940時間です。賞与レベルも7割程度です。

 また、早期退職制度の影響で、岡山でも170人の正社員のうち、50人が辞めました。年の瀬の12月には、8階のレストランで食中毒事件もありました。まだ、確定してはいませんでしたが、その時点で、情報開示し、即座に保険所に届け出ました。すぐに記者会見しました。次の年、飛躍のための投資を全員の前で説明しました。地下2階を広くし、地下1階を改装。1,2,3階もやる総額10億円規模の内容です。ただ、この時点では、本社からのOKは出ていませんでした。10億以上は、常務会で通さないといけない。自信が無いので、皆に言って退路を断ったのです。常務会では一回目は駄目でした。2回目は、各所の助けもあり通すことができました。

img-014 地階1階をエスカレーターにしたことで、入店客も2桁増になりました。また、イオンとの交渉の結果、フードメゾンを出店しました。赤字を覚悟しましたが、何とか数千万ほど黒字も確保しました。マイナス10円とプラス10円が天国と地獄ほど違うことを知っているので、実額の何倍も嬉しかったです。

 経営には時に憎まれることも必要だし、人をリードしていくには夢も語らないといけない。黒字になったのは、従業員や派遣の方の努力の賜物だと思います。最近は、わくわくする店をどう作るかに力を入れています。店は、すべてが同じでない。その地域に会う店を作るのが大事です。岡山に向けて出発する時に、先の専務は、「岡山のお客様に誠意を持って寄り添うんだぞ」と言われました。“お客様に寄り添う”というのは、いい言葉だと思います。これは、すべての高島屋の活動の根源だと思います。

≪今後のセミナー動画&テキスト投稿予定≫

  • 「新しいショッピング体験の創造へ 〜ウエアラブルで変わるファッションと人の新しいカタチ」 株式会社ジョリーグッド代表取締役CEO、Wearable Tech Expo総合ディレクター 上路 健介氏

  • 「今こそメードインジャパン ~TATEYAMA Wa'Uから新しい産地ブランド作りを考える~」

    クールジャパン機構 太田 伸之氏
    株式会社三越伊勢丹 婦人・子供統括部(仕入構造改革担当) 中北 晋史氏
    Tokyo 新人デザイナーファッション大賞事務局長 中川 淳郎氏
    アートジョイ代表取締役 小田 浩史氏
    ファシリテーター 中小企業基盤整備機構本部プロジェクトマネージャー 山本 聖氏ほか

     

    次回のJFW-IFFは、東京ビッグサイトで7月22~24日に開催します。好評の会場セミナーもぜひご注目ください!!

     



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