FB業界で活躍する元甲子園球児たち

2015/03/09 07:00 更新


《センケンコミュニティー》熱きドラマはホームラン級!

 春到来! 今年も全国選抜高校野球大会(春の甲子園)が21日から行われます。球児たちの活躍を今から楽しみにしている方も多いでしょう。というわけで、センバツ開催を(勝手に)記念しまして、今回はファッション業界で活躍する「元甲子園球児たち」をご紹介します。

 一人ひとりに熱いドラマがあり、インタビュー中の記者の胸にもぐっと熱いものがこみ上げました。いや~スポーツって、本当にいいものですね!!

 

(上段、左から)山本さん、伊崎さん、(下段、左から)水落さん、江連さん
(上段、左から)山本さん、伊崎さん、(下段、左から)水落さん、江連さん

 

本日ご登場いただくのはー

・ユナイテッドアローズ UA本部販売部副部長の山本幸正さん
・小松精練 営業1部部長兼東京営業所長の水落昭人さん
・デサント デサントブランド統括部アスレチックマーケティング部チームスポーツMD課マーチャンダイザーの江連悠次郎さん
・TSIホールディングス 執行役員事業戦略本部海外事業企画部長の伊﨑範隆さん

まずは、プロの世界にまで登りつめたこの方から。 

 

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野球も販売も「準備と努力」

ユナイテッドアローズ  UA本部販売部副部長 山本幸正さん

◇3年生の春に甲子園に出場し、93年阪神タイガースに入団。95年にユナイテッドアローズに入社し、六本木店店長などを経て現職

現在は主に店長教育を担当。立ち姿も野球人っぽい
現在は主に店長教育を担当。立ち姿も野球人っぽい

 小学校1年で野球を始めて以来、ピッチャー一筋。複数の高校からスカウトを受けて、一番甲子園に近くて、一番厳しいと言われていた堀越高を選びました。

 練習はとにかく厳しくて、高校時代が人生で一番苦しかったですね。あまりの苦しさに、寮を脱走して実家まで20キロを裸足で帰ったこともあります。1年時に100人が入部して、残ったのは20人。野球を通して精神力が鍛えられました。社会に出て通用する人間になるための訓練だったと思います。

 甲子園の初戦は、「今大会ナンバー1の左腕」と言われた安達(元阪神)や黒田(元巨人、西武)を擁した村野工高と。初の甲子園のグラウンドに、ただただ感動して燃えました。それまで本当に苦しかったので、7対3で勝った時は人生で一番嬉しかったかもしれません。

 2回戦の相手は元ヤンキースの松井のいる星稜高。「東京ナンバー1ピッチャー対ゴジラの戦い」として、スポーツ紙にも取り上げられました。好ゲームになって、お互いに6回までノーヒットノーラン。ただ、最後の方は痛めていた右肘が悲鳴をあげていました。

 結局、松井が7回にホームランを打って、4対2で敗退しました。

 試合の一週間後に肘の手術をしましたが、どうも痛みが取れない。ドラフト5位で阪神に入団してから精密検査を受けると、そもそも靭帯が切れていたことが発覚したんです。2回移植しましたが元には戻らず、引退に。めちゃめちゃ残念でした。もっともっと野球界にいたかったですから。

 プロの頃って、18歳かそこらの若造をタニマチの大人たちがものすごくチヤホヤしてくれて、感覚が麻痺しそうになる。そこに疑問を感じて、自分がおもてなしをする側にまわりたいと思いました。

 元々服が好きで、ユナイテッドアローズ(UA)で異常なほど買い物をしていたんですが、販売員さんにすごく良くしてもらっていて、そこに感動があったんです。それで、まずはアルバイトから始めて、1年後に試験を受けて社員になりました。

 当時の自分はかなり浮いていたと思います。UAが三大セレクトショップと呼ばれるようになっていた頃で、周りはものすごくおしゃれで尖った人ばかり。それに対して、自分はガタイがよくていかついし、ずっと体育会系だったからおしゃれな会話についていけない。カルチャーショックは大きかったですね。心の中で「何だ、その横文字は!?」と思いつつ、表面上は合わせたりしていました(笑)。

 慣れるためにすごく努力しました。それが自分の取り得だし、それしかできないですから。分からないことは毎回メモして後で調べたし、後輩にスカしたようなクールな態度でいるのが嫌だったから、積極的に接しました。当時に比べると今のUAは、「THE服屋」というよりも体育会系の雰囲気になったと思います。もちろん服バカは今も多いんだけれど。

 野球は人生の縮図だと思う。1回から9回までを人生にたとえると、僕は前半3回までが野球でした。野球人生は18年、UA歴は今年で19年。UAでのキャリアの方が野球より長くなった。今は6回が終わったところで、残っているのはあと3回。前半、中盤で酸いも甘いも勉強してきたので、後半はそれらを活かす生き方をしていきたい。

 野球で学んだことは、チャンスの後には必ずピンチがあることや、統計学にも通じる“率”の意識、平常心の大切さといったことでしょうか。あとは、相手は自分に何を望んでいるのか、自分はどう見られているのかを意識する考え方も身に付きました。それを考えると、自分がどう振る舞うべきかが分かる。野球の時はファンやマスコミ、今はお客様が何を望んでいるかを考えるようにしています。

 信条にしているのは準備と努力。この二つを大切にして、平常心でやっていけば人のお役に立てる。野球とその後の人生を通して、感じたことです。

 野球人は共通した心構えがあって、ここは妥協しちゃいけないというポイントが一緒だったりする。簡単に言うと、硬派で真面目なのが野球人。ファッション業界にも意外と野球人は多くて、野球を通じてプライベートで飲むようになって、その後仕事にもつながったという関係も沢山あります。

甲子園出場を経て阪神へ。当時から野球の次に服が好きだった
甲子園出場を経て阪神へ。当時から野球の次に服が好きだった

<データ>
・生まれ年、出身地=74年東京都
・出身高校=堀越高校
・当時のチームメートや仲間、対戦相手=松井秀喜、井口資仁、黒田哲史、安達智次郎

 <関連動画> UAの14年秋の情熱接客キャンペーンで、旧友の井口資仁選手(千葉ロッテマリーンズ)を接客する山本さんはコチラ

 

 

 次は強豪・星稜高を破り、甲子園出場を果たしたキャプテンが登場!

運も見方した星陵との決勝

小松精練 営業1部部長兼東京営業所長 水落昭人さん

◇3年夏にキャプテンとして出場。創部4年目の公立高校が初出場したことは大きな話題となった。入社後は、主にテキスタイルの国内販売を担ってきた

東京営業所長として人材育成にも力を入れる
東京営業所長として人材育成にも力を入れる

 第65回の夏の大会(1983年)に出場しました。甲子園では初戦で敗退したのですが、この大会は、桑田、清原が居たPL学園が優勝、池田高校の水野、市立尼崎の池山、箕島高校の吉井ら、後にプロやメジャーで大活躍する選手が勢揃いした大会。

 我々が初戦で戦った久留米商高のエースも後にプロ入りしたほどです。創部4年目の公立高校にとっては、手も足も出ない、「プロに行くのはこんな人達なんだ」と痛感させられたことを覚えています。

 私の母校、小松明峰高校が甲子園に出場したのはこの1回きり。当時も取り立てて強いチームではなかったのですが、2年の時に監督が交代。新しい監督さんは、以前、別の高校で甲子園出場を果たしたと聞いてましたので「一度で良いから勝てるチームを作ってほしい」とお願いしたのです。

 2年秋からの新チームでキャプテンに任命され、厳しい練習を続けました。実は私は本格的に野球をするのが高校時代が初めて。チームメートもすごい実績を持った選手が居るわけでもなく、こんなチームが甲子園に出場できたのは、運も味方したといえます。

 今もですが、石川県の強豪校といえば松井秀喜さんを輩出した星陵高校。3年夏の県予選で、星陵と別ブロックとなったのも運ですし、決勝戦の前日、星稜高校が延長17回を戦い、決勝戦当日は天気予報が雨だったにもかかわらず、晴れたこともラッキーでした。相手のエースは疲労が抜け切っていなかったのは間違いありません。

 予選は全て3点差以内と接戦続きだったのですが、決勝戦も1点を争う好ゲーム。7回にレフトオーバーの決勝打を放ったのですが、打った瞬間は外野フライかなと。ところが何か風が舞ったのでしょうか。レフトは追いつけず、甲子園出場を決めるタイムリーとなったのです。後にその時の相手チームのレフトの選手と素材展示会「ジャパンクリエーション」で再会したのも良い思い出です。

 打順、ポジションは3番センター。自分で言うのも変ですが、中の上の選手でした(笑)。練習は厳しかったですね。今と違って水が飲めなかったですから。ファールボールを取りに行ったついでに田んぼに顔を付けてましたね。

 そういえば、巨人、ヤンキースなどに所属した松井秀喜さんが、我々の決勝戦を観戦し、小松明峰で甲子園に出たいとの思いを募らせたそうです。巨人時代の最後のシーズン、松井さんと顔を合わせる機会があったのですが、あの時のキャプテンですか、と覚えていてくれたことにとても感激しました。

 ◇

 小松精練に入社したのは、野球がきっかけ。大学時代は野球を辞めて、アルバイト三昧だったのですが、4年の春に母校のグラウンドで練習を手伝っていた時。監督から「小松精練はどうだ。社長に1回会ってみないか」と声をかけられたのです。

 実際にお会いした際には野球の話しかしなかったのですが、「今日で就職活動は終わりだ。内定通知を持ってこい」とその場で、会社の人に指示を出されたのには驚きました。就職活動は終わりだと言っても、他に就職活動はしてなかったのですが(笑)。

 後で話を聞いてみると、中山賢一社長(当時)が、小松明峰の監督を尊敬されており、「一度監督の教え子を入社させたい」という話をされていたとのこと。その第一号が私だったのです。

 野球をすることで、忍耐力だけは付いたと思っています。仕事はいっぱいしんどいことがありますが、野球が縁で会社に入りましたし、恩義も感じています。監督の顔をつぶすことはできない、という思いは今もふと出てくることがありますね。

強豪・星陵との県大会決勝戦でサヨナラ打を放ち、甲子園出場を決めた
強豪・星陵との県大会決勝戦でサヨナラ打を放ち、甲子園出場を決めた

 

<データ>
・生まれ年、出身地=65年石川県
・出身高校=小松明峰高校
・当時のチームメートや仲間、対戦相手=山田武史

 

 

 

 

 

 

 

次に登場するのは、現在プロ野球チームのユニフォーム企画に携わっているMD担当者!

打ち損じの悔い、胸に刻んで

デサント デサントブランド統括部アスレチックマーケティング部チームスポーツMD課マーチャンダイザー 江連悠次郎さん

◇3年の夏に甲子園に出場。日本大学を経て、07年にデサントへ入社。現在、マーチャンダイザーとして「デサント」ブランドの野球ウエアの商品企画とマーケティングに関わる

自身が企画し千葉ロッテマリーンズなどで採用される新型ユニフォームと。大きな仕様変更でも、球団側に利点をぶれずに力説した
自身が企画し千葉ロッテマリーンズなどで採用される新型ユニフォームと。大きな仕様変更でも、球団側に利点をぶれずに力説した

 受験前年まで3年連続で甲子園に出場した日大東北高校(福島県)が夢に一番近い学校だと思い、入学しました。実家は栃木県でしたから、下宿生活です。

 親からは「ボール拾いで終わるかもしれないぞ」と言われていましたが、「絶対に甲子園に行く」と覚悟を決めて入学しました。だから、厳しい練習を耐えられたし、辞めたいと思ったことは一度もありません。

 ただ、辛かったのは肩を壊した高2の時。同級生が試合に出始める頃でもあり、置いていかれるようで焦りました。そんな時、父からの手紙に励まされたのを覚えています。

 文面には「今はしんどいかもしれないが、ウイニングボールを掴む自分の姿をイメージし、今できる練習に励め」とあり、前向きになれたのです。言葉の通り、なりたい自分を想像しながら、そのときやれる走り込みなどに取り組み、回復後は今まで以上に練習に打ち込んで、レギュラーの座を勝ち取りました。

 3年時に任されたのは4番・ファースト。夏の県大会では接戦を勝ち抜き何とか優勝し、学校としては4年ぶりに甲子園出場を果たしました。憧れの甲子園は球場に立つと、鳥肌がで出て寒いくらい。歓声はまるで地響きのようでした。本戦の結果は残念ながら1回戦負け。対戦相手は、その年の選抜大会で準優勝した徳島の鳴門工業高等学校でした。

 個人成績は4打数1安打。ヒットを打つことはできましたが、凡打に終わった最後の打席は今でも悔やんでいます。それまでの配球から次の球はインコースを予想していたのに、一瞬の迷いが生じて、読み通りの球に振り遅れて詰まらせ、レフトフライになってしまったのです。本当に悔しくて今でも夢に見ます。

 ◇

 大学でも野球を続けた私は、就職活動ではこれまでの経験を生かそうと、異業種で決まっていた内定を蹴ってデサントに入社。専門店への営業などを経て、12年から野球ウエアの企画に携わることになりました。

 MDとしてモットーとしているのはぶれないこと。商品開発から販促まで事業全体に関わる立場なので、私自身に迷いがあってはいけません。

 例えば現在、複数球団で採用されている新型のユニフォームウエアは、伸縮素材を用い、従来品より動きやすくしたものですが、これまでのユニフォームとは趣きが大きく異なるので、一番初めのチーム(千葉ロッテマリーンズ)に提案するときは、社内からは採用されるか不安視する向きがありました。

 実際、野球業界は保守的で変化をあまり好まないんです。しかし、「動きやすいウエアは、選手にも支持されるはずだ」と確信していた私は、堂々とその良さをプレゼン。見事、伊東勤監督から採用のご返事をいただくことができました。お蔭様で選手の皆さんにも好評です。

 実はデサントの野球ウエアの市場占有率はおよそ7%と、競合に大きく水を空けられています。シェアを引き上げるには、これまでの常識を覆すような“強い”アイテムがどうしても必要。伸縮素材を使った動きやすいユニフォームはその一つです。信じた道をぶれずに突き進む--。迷いに泣いた甲子園での経験が、今の仕事に生きていると言えます。

憧れの甲子園でヒットを打てたが、凡打に終わった最終打席は今でも悔いが残る(鳴門工戦)
憧れの甲子園でヒットを打てたが、凡打に終わった最終打席は今でも悔いが残る(鳴門工戦)

・生まれ年、出身地=85年栃木県
・出身高校=日本大学東北高等学校
・当時のチームメートや仲間、対戦相手=高井雄平、岡田幸文

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

次は、現在大手メーカーの執行役員を務める元高校球児が登場!
練習も上下関係も苦にならず

TSIホールディングス 執行役員事業戦略本部海外事業企画部長 伊﨑範隆さん

◇73年の第45回選抜高等学校野球大会に出場。大学卒業後、東京スタイルに入社。国内だけでなく、中国など海外市場の開拓も推進してきた

 「気配りの人で誰にでも優しく声をかけてくださる」(社員談)と人望が熱い伊崎さん
「気配りの人で誰にでも優しく声をかけてくださる」(社員談)と人望が熱い伊崎さん

 プロになろうと思って、ずっと野球をやってきましたが、甲子園で作新学院の江川(後に巨人)のお尻を見て、プロはあきらめました(笑)。

 プロに行くのはこんな人なんだと思い知らされましたね。私は当時、173センチ、68キロ。高校を卒業する時、複数の大学から誘いがあったのですが、プロになれないならと思い、普通の大学生活を送ることにしたのです。

 野球は小さい頃から。子供の時はいわゆるピッチャーで4番。どうせやるなら強い所でという思いで、地元(東京都西多摩郡日の出町)の中学から桜美林中学に編入、そのまま桜美林高校に進学しました。当時、桜美林高校は甲子園に1回出場した経験があり、野球部強化を進めていました。

 今思い返せば、ハードな毎日を過ごしていましたね。朝7時にはグランド整備、授業が終わった午後3時ごろから9時、10時まで練習。ベンチ入りすると寮に入ることができるのですが、それまでは片道2時間かけて通学していました。

 家を出るのは午前5時過ぎで、帰宅は午後11時以降。高校2年でレギュラーとなって寮に入ることができて良かったです。

 翌年春の選抜大会の出場権を争う72年の東京都大会。なぜかこの大会で私はラッキーボーイでした。自分では決して傑出した選手ではなく、普通のちょい上だと分かっていたのですが、打撃でも守備でも大活躍。予選で経験した2度の延長再試合も全て活躍できました。

 不思議と良い場面で回ってくるのです。打順は最初6番か7番だったのが、最後には5番ライトでした。

 クライマックスは日大一高との決勝戦。0対0で迎えた9回裏。2死ランナーなしから3、4番が連続ヒットで2死2、3塁。確実に打てる気がして、しかも来るのは絶対インコースの直球だと。そして予測した通りのボールをセンター前にはじき返し、サヨナラヒット。甲子園出場を決めたのです。

 甲子園では初日の第二試合で小倉商と対戦(2対4)。相手チームの門田富昭投手は後にプロ入りした選手。予選と違って打てる感じはありませんでした(笑)。当時の野球の練習は、水は飲めない、水泳もだめ。逆にうさぎ跳びは奨励。苦しかったのでしょうが、やめようとは思わなかったですね。

 野球部出身だから、あるいは甲子園に出たから、仕事に活かせたとは別に思いませんが、周りの皆さんが自分の事をよく覚えてくれた実感はあります。それに上下関係の厳しさがあまり苦にならなかったことは間違いないですね。

 

72年のと大会でサヨナラヒットを決めて胴上げされた
72年のと大会でサヨナラヒットを決めて胴上げされた

・生まれ年、出身地=55年東京都
・出身高校=桜美林高校
・当時のチームメートや仲間、対戦相手=江川卓、門田富昭

 

 

 

 

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